帰ってきた!平木博士の異常な愛情

または私は如何にして心配するのを止めて二次元美少女を愛するようになったか。

2016年秋に活動再開。同人サークル「けろぷろ!(旧名ケロちゃんプロジェクト)」からの告知用ブログです。

サークル「けろぷろ!」同人イベント参加のお知らせ(8月10日更新)

2018年下半期参加予定イベントと、作品紹介のページです。

例大祭2018
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シュマリ・ナイ

 朱鞠内。アイヌ語で「シュマリ(キツネの居る)ナイ(沢)」。子供の頃、夜中に自室でバイブル(JR時刻表)を捲りつつ、はるか彼方のこの地名に思いを馳せていた。北海道の奥地にひっそりと佇む集落を想像していた。日本最低気温記録の-41.2℃を記録した街で、朱鞠内湖が横たわる。当時朱鞠内には深川から名寄に至るJR深名線が通っていた。

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 ありし日の深名線

 あれから四半世紀の時が流れ、ようやく憧れの朱鞠内を訪れる機会ができた。だが鉄道は23年前の平成7年に廃止され、現在はジェイ・アール北海道バスが代替バスを走らせている。鉄道時代は全区間を通しで運行する列車もあったらしいが、代替バスは途中の幌加内で系統が分離され、朱鞠内へ向かうには一旦乗り換えが必要になっている。札幌から特急列車で1時間強、ここ深川駅がかつての深名線の始発駅であった。

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 JR深川駅にやって来ました。

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 これより、バスに乗って旧深名線を辿ります

 10時25分発の幌加内行きバスは発車時刻ギリギリに現れた。バスは中距離路線でよく見る4列シート車だったが、バスに乗り込んだのは私を含めてたった3人。深名線の沿線はこれといった街もなく、この路線は鉄道時代から大赤字であったという。深名線代替バスも経営状態は厳しく、車両こそジェイ・アール北海道バスのものだが、乗務員や運行管理は道北バスに委託されている。運転手は車内を軽く見渡した後、手持ちの乗員表に深川3名と記入した。こうして「これだけしか乗ってないんですよ」という統計を取ることで、いずれはこの路線から撤退する腹積もりなのであろう。

 定刻に発車したバスは深川の市街で北に進路を変え、JR函館本線の線路をオーバークロスする。旧深名線は深川を出ると東に大きく回り込むかたちで多度志の街へ向かっていて、バスはこの区間を国道でショートカットする。今乗っているバスはこの区間の停留所には止まらない「快速」だ。旧深名線と合流する多度志のバス停で乗客が1名降りた。ここは鉄道時代の駅からは少し離れた場所になるらしい。ここから廃線跡が右手に見えるようだが、鉄道の廃止から20年以上も経ってしまえば土に還ってしまったであろう。

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 一番前の特等席から。晩夏の北海道を往く。

 幌加内行きのバスは私と、深川から乗っている爺さんの二人を乗せて国道275号線を北上する。対向車両はほとんど無く、時々大型バイクに乗った一団とすれ違う。ここ北海道に限らないのだが、ローカルバスに乗っているとやたらと廃校舎に目に付く。都会でも地方でも、少子化と高齢化で小学校の数は年々減り続けている。廃線跡は土に還ったが旧駅舎は保存し管理している人が居るらしく、幌成では鉄道時代の駅舎と思しき建物が車窓を過ぎた。鷹泊で爺さんが降りてバスは私一人の貸切となる。小さな峠をトンネルで越えて幌加内町に入った。

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 ソバ畑。
 
 車窓には一面のソバ畑が広がる。昭和40年代に米の減反政策が始まり、代替作物としてここ幌加内町ではソバの作付が始まった。冷涼な気候と昼夜の寒暖差がソバの栽培に適しているという。町内にも美味しい蕎麦屋さんが何軒かあるらしい。このバスは11時33分に幌加内に到着し、12時58分発の名寄行きに乗り換えとなる。1時間強もあれば街歩きと美味しい蕎麦にありつけるだろう。バスは幌加内の市街地に入り、定刻通りにバスターミナルに到着した。

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 深川行きのバスとすれ違った。
 
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 終点、幌加内バスターミナルに到着。

 幌加内町は南北に約65km、そして人口は約1500人。旧深名線はこの北海道で一番人口密度が低い町を南北に縦断していた。バスターミナルには深名線資料館と蕎麦屋が併設されているが、蕎麦屋の方は臨時休業でここでは資料館だけを見ていくことになった。館内は無人で、自由に見ていって下さいという方針だ。
 
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 立派な幌加内バスターミナル 
 
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 資料館におじゃましま~す

 
深名線の開業は1924(大正13)年10月の深川~多度志間を皮切りに、1941(昭和16)年10月に全線が開業している。沿線の雨竜ダム建設に伴う資材輸送や木材輸送が主目的で、幌加内町もかつては林業で栄え、昭和35年の総人口は約1万2千人であったという。だが後に社会構造の変革により、町の人口も鉄道の利用者数も減り始める。深名線も他の道内の鉄道と同じく廃止が取り沙汰されたが、皮肉にも沿線道路が未発達で路線バスへの転換が出来ず、結果として深名線は廃止を逃れることが出来た。だが深名線は既に鉄道としての役目を終えており、僅かな通学客と用務客、そして時々都会から訪れる旅行者たちを相手に、あてもなく鉄路を往き来している状態であった。

 その沿線道路も平成の世になれば整備が完了し、鉄道としての深名線はこれで引導を渡されたことになった。1995(平成7)年9月3日、JR深名線はこの日をもって役目を終え、翌日からJR北海道バスの路線バスとなった。

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 街にはまだ深名線の面影があった。

 資料館で深名線の歴史を学び、街へ出る。幌加内はこじんまりとした街で乾いた風が心地よく、もうすっかり秋の景色だ。だがここは北海道有数の豪雪地帯。役場の前を通るとちょうど12時のチャイムが鳴る。街のあちこちに今年2月25日、積雪324cmを記録したとの表示がある。そういえば今年の冬は寒かった。そして夏は暑かった。更に現在日本の南海上を超大型の台風21号が北上しつつある。予報では明日関西直撃、北海道には明後日にやってくるようだが、幌加内の街は嵐の前の静けさである。

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 鉄道時代の駅跡地にモニュメントが建っていた。

 鉄道時代の幌加内駅は役場の裏手、街外れにあったという。駅前通りと思しき道路を突き進んだ奥にあった。幌加内駅跡と標されたモニュメントに、線路と駅名標が保存されている。かつてここに駅舎が建ち、材木を積んだ貨物列車や、深川や札幌へ向かう大勢の乗客で賑わったのだろう。願わくば鉄道時代にここへ来たかった。かつてホームであったであろう場所に立って、そっと目を瞑る。秋の風が頬を撫でる。

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 お昼ご飯は幌加内そば

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 続いて名寄行きのバスに。朱鞠内を目指します。

 幌加内の街で名物の蕎麦を頂いた後、幌加内12時58分発の名寄行きバスに乗る。乗客は私を含めて2名。うち1名は旅行者で途中のルオントで降りるという。要するに、地元の乗客は0ということだ。

 再びソバ畑の中を往く。右手に朱鞠内湖より注ぐ雨竜川が現れ、深名線の線路はこの川の向こうを走っていたらしい。目を凝らすとそれらしき遺構が確認できる。アイヌ語のウェン(悪い)ベツ(川)から来た雨煙別を過ぎ、やがて前方から緑色の鉄橋が現れた。第三雨竜川橋梁、またの名をポンコタン鉄橋と言い、町民有志によって今も保存されている。先程の深名線資料館でも学んだが、深名線が添牛内まで延伸した昭和6年に、当時最先端の土木技術で建設された鉄橋だ。北海道の鉄路は先人たちの苦行と努力、そして尊い犠牲によって敷設されたものばかりだが、北海道150年の現在、その鉄路はJR北海道の足枷となり先の未来は明るくない。

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 鉄道時代の鉄橋が現れた。

 
道の駅に併設された「せいわ温泉ルオント」で旅行者が下車した。バスは再び私一人の貸切となる。バスは一旦雨竜川と別れ、再びソバ畑の中を往く。次の添牛内では左手に鉄道時代の旧駅舎がちらりと見えた。
 
 北海道の果てに伸びる国道275号線。その果てにその集落はあった。13時43分、朱鞠内着。貸切状態のバスをここで降りる。乗客0となったバスはそのまま名寄方へ引き上げていった。

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 朱鞠内にやって来た。

 
かつて駅舎だったであろう跡地に瀟洒な待合室があり、レールと駅名標のモニュメントが建っている。かつてのヤード跡はそのまま公園になっていた。鉄道時代は有人駅で、最盛期には木材やダム建設資材の運搬で賑わったのだろう。だが今は人っ子一人居ない。ただっ広い駅跡地には秋の風が吹いている。

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 札幌まで184km、意外と近かった。

 
北海道雨竜郡幌加内町
朱鞠内。49世帯人口92人の小さな街。駅前には廃ガソリンスタンドと、北海道新聞の看板を掲げた萬屋。国道沿いに民家が数軒、診療所、郵便局。郵便局の前で初めて町民に会う。「こんにちわ」と挨拶をしてくれたので、返す。そして駐在所、しばらく歩いた先に消防署、坂を上がった所に小学校。中学校や高校は先程の幌加内まで通わなければならない。朱鞠内は一足早い秋風が吹く静かな街だった。子供の頃から一度は訪れたかった北海道の静かな街。ようやく来れた。そして来てよかった。

 続いて朱鞠内湖に向かった。幌加内町を南北に流れる雨竜川の上流をダムで堰き止めて作られた人口湖だが、まるで太古の昔からそこに存在していたかのような雰囲気がある。北海道の奥地にひっそりと佇んでいる。ダムは北海道の電源開発の一環として戦時中の昭和18年に完成し、建設資材の運搬のために深名線が建設された。鉄道も、そしてダムの建設も、当時の最先端の技術が投入され、そしてその影に尊い犠牲があったことは推測できる。その労働環境は過酷なものであっただろう。湖畔に立つ慰霊碑に、そっと手を合わせる。
 
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 朱鞠内湖にやって来た。

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 エゾマツの森の中、湖は静かに佇んでいる。

 
湖畔のキャンプ場には夏も終わったというのに幾つかテントが立ち、人の気配があった。昭和53年2月17日にここで記録した日本最低気温-41.2℃を表すモニュメントも建っている。この湖にはイトウやマスが棲み、シーズンには釣り人の姿も見られるらしい。湖畔の芝生に寝転んで、そのまま大空を眺める。北海道の空はどこまでも広く青い。そして目の前には湖。暫し、空を眺めていた。

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 乗客0の名寄行き最終バスが現れた。

 朱鞠内の集落に戻り、16時33分発の名寄行き最終バスに乗車した。バスはまたしても私の貸切だった。最前列の特等席に座り、話好きの運転手と雑談しながらバスは往く。ここ朱鞠内から名寄はほぼ無人地帯で人家が全く見られない。運転手が言うにはこの区間は朱鞠内から名寄に通勤する会社員。母子里から名寄に通学する高校生二名、そして朱鞠内にパチンコ好きの爺さんが居たけど最近は見なくなったという。そして私のような旅行者が時々乗りに来るという。峠のトンネルを抜けると前方に名寄の街の明かりが見えた。ここまで来ると深名線の旅の終わりも近い。

 天塩弥生バス停で運転手がバスを停めた。道路と並行する廃線跡に木造の駅舎が建っている。これは鉄道時代の駅では無く、鉄道OBがこの地に駅舎風の建物を建てて宿を経営しているという。「待っててあげるから写真撮ってきなよ」とのことで、カメラを下げて駅舎を見に行った。運転手が言うにはこのバス路線を利用して駅舎を訪れる旅人も多いらしい。
 
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 旅人宿、天塩弥生駅

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 終点、名寄駅前に到着。

 天塩川を渡って名寄の市街に入る。商店街や百貨店もあり、まるで大都会に来たようだ。17時35分、バスは夕暮れ時の名寄駅前に到着。最後までバスは私一人の貸切だった。運転手に「またおいで」と声をかけられバスを降りる。基本的には鉄道好きだけど、たまにはこうして路線バスの旅もいいものだ。次に来るときは雪深い冬に、そして天塩弥生の旅人宿に泊まりたい。辺り一面の銀世界の中を私一人を乗せたバスが往く。そしてその時はまた、この運転手さんのバスに乗れればいいなと思った。

一乗谷にて

 8月の或る日。スマホでえきねっとを触っていたらムーンライトながら号の指定席券が生えてきたので、8月6日の月曜日の深夜、東京駅10番線の売店でお酒とおつまみを買い込んで、いつもの夜行列車に乗った。

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 東京23時10分発、ムーンライトながら号大垣行き

 翌朝5時50分、ムーンライトながら号は定刻通りに終点の大垣駅に到着した。5時53分発の下り列車へと足早に乗り継ぎ、米原から6時50分発の北陸本線敦賀行きに乗った。湖北の水田地帯を走り、左手に余呉湖を望み琵琶湖の北端で湖西線と合流する。この辺りは関西の最果て感が漂う。続く近江塩津駅の先、全長5173mの沓掛トンネルで滋賀県と福井県の県境を越え、新疋田の先で左手に鳩原ループ線が別れる。このループ線は上り線で乗車するのは帰路になる。先程別れた上り線が頭上をクロスする地点、西村京太郎の『雷鳥九号殺人事件』のトリックで使われた有名な場所だ。

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 米原で乗り継いだ列車は混んでいた

 7時36分、敦賀着。続いて7時41分発の福井行きに乗車した。敦賀を出ると間もなく全長13870m、北陸トンネルに突入する。現在でも在来線のトンネルとしては日本最長を誇る。トンネルを抜けると越前国で、福井市へ向かう通勤客が乗ってきた。暦の上では今日は立秋、平成最後の秋がやって来た。だが車窓に広がる越前平野は夏景色そのもので、たわわに実った稲穂が車窓を過ぎていく。今日も朝から暑くなりそうだ。夜行列車での寝不足から処々座席で船を漕ぎつつ、8時37分福井着。

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 恐竜のモニュメントが出迎える福井駅
 
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 越美北線に乗ります。

 高架化された福井駅では只今自動改札設置工事の真っ最中。そんな福井駅の外れの0番線から、1日9本の越美北線普通列車が発する。その名の通り越前と美濃を結ぶ鉄道として着工したが両線を結ぶ夢破れ、現在はこの越美北線と第3セクター化された越美南線に分断されている。9時08分発の九頭竜湖行きはキハ120系2両編成。後ろの1両は途中の越前大野止まりで、一乗谷で降りるつもりなので2両目に乗った。車両にはドアを手で開けて闖入する。例のきっぷで旅行中と思しき男性陣や地元民数名を乗せて発車した。

 「4年後には隣に北陸新幹線が走るんだな」などと想像しながら福井の市街を走り、高架を降りて北陸本線と別れ、最初の停車駅越前花堂に停車する。片面ホームの小駅だが北陸本線の線路にも同じ駅があり、連絡通路で結ばれている。ここが時刻表上での越美北線の起点駅だ。北陸自動車道を潜って福井市の郊外を抜け、水田と足羽川が見え始めると一乗谷に着く。このまま越美北線を終点まで乗り通したい欲求も出てきたが、席を立って1両目の先頭から列車を降りた。

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 一乗谷にて。乗降客は私一人だった。

 一乗谷は福井市郊外、足羽川に注ぐ一乗谷川に沿って連なる谷底平野であるが、かつては戦国大名朝倉氏の城下町として栄え、最盛期には1万人の人口を有していた。当時京都の人口が10万、堺や博多が3万~3万5千というのだから、我が国屈指の大都市がここにはあった。だが一乗谷は1575年に織田信長の侵攻を受け一夜にして灰燼と化し、当主の義景は大野に逃れるも身内の裏切りにあって自害する。ここに戦国大名朝倉氏は滅亡し、一乗谷はその後400年近くも田畑に埋もれ忘れられた都と化していた。

 一乗谷駅から徒歩数分の所に福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があり、まずはここで一乗谷の歴史を予習する。朝倉氏は元は但馬を発祥とした豪族で、応仁の乱の後で越前国の守護職として取り立てられたようだ。1471年に一乗谷城を建築しここを本拠地として代々栄えるが、11代義景の代になると信長と対立するようになり、遂に1573年信長勢の大軍により一乗谷城は陥落。ここに戦国大名としての朝倉氏も滅亡した。とボランティアの方から丁寧な説明を頂きつつ、館内の史料を見て回る。

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 一乗谷の模型。最盛期はこの平野に1万人の民が暮らした。

 
博物館の前から一乗谷朝倉氏遺跡まではバスが出ているが、特に歩けない距離でもないので今回は徒歩で向かうことにした。10分も歩けばかつての一乗谷の入り口、下城戸跡が見えてきた。現在は重厚な石垣が残るだけだがここに巨大な門があったことくらいは想像がつく。険しい顔の門番が立って見張っていたのかもしれない。そしてここより先が忘れられた都、日本のボンベイこと朝倉氏一乗谷城下町だ。

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 おじゃましま~す

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 この先、一乗谷。
 
 
暦の上では秋と言ってもこの夏の暑さは異常で、今日も太陽は天空高く昇り日差しが暑い。夜行列車は冷房が効きすぎるので今回は長袖シャツを着ていて、もういっそ脱いでしまおうかと思うくらい暑い。暫くは一乗谷川に沿って普通の農村風景が広がる。特別史跡と言っても一乗谷落城後は都の上に田畑が開墾され人が住んでいるので、あくまで発掘のために田畑を手放した箇所だけが遺跡として認識されている。やがて一乗谷平面復原地区が見えてきた。ここはかつての町並みの礎石だけが見て取れる。ちょうど職員さんが草刈りをしておられたので話を聞いてみた。此処はかつての寺院と町屋群らしい。とは言え土の下から出てきたのは礎石だけで、ここでかつての城下町の喧騒を想像するのは難しい。

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  かつて此処に都市があったと言うが。

 
続いて一乗谷復原街並を見る。此処は有料で、先程の資料館と共通の230円の拝観券を買ってある。田畑の下から出土した礎石の上に、戦国時代の町並みを復元した一角である。黄土色の土壁が続く情景はまるで3Dロールプレイングゲームの主人公になったようだ。当時はここを沢山の武士や町人が歩いていたのだろう。

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 さながら、3DRPGのよう。 

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 商店もあり、多数の民で賑わったのだろう。 

 武家屋敷や町人の家、商店。そしてここでは井戸や厠までもが忠実に復元されている。この厠、竪穴の土壌を分析したところ寄生虫の卵の化石が発見されたことから解明されたらしい。もちろんトイレは汲み取り式で、溜まった物は養分として農家に販売されていたのだろう。
 
 復原街並から一乗谷川の向こうが領主の館群である。このうち一番大きなものが朝倉氏代々の当主が住んだ朝倉館跡である。ここは門構が復元され、三方は土塁と濠で囲まれている。ここも土塁が残るのみだが先程の城下町とは規模が違う。明らかな屋敷である。

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 領主の館。

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 かつてここに立派な屋敷が建っていたというが。

 朝倉氏最後の当主義景は戦国大名と言うよりは文化人寄りで、戦はあまり上手くなかったようだ。キャラ的には今川氏最後の当主氏真に近い。氏真は家康に攻められた掛川城で主君以下全員の命を保証してもらって降伏したが、義景は残念ながら身内の裏切りにもあって自害してしまう。戦う相手が悪かったとはいえ、越前の覇者朝倉氏の悲惨な最期だったと思う。だが当の信長の権威もその後の本能寺であっけなく滅んでしまう。元亀天正の頃の話である。

 一乗谷落城から400年以上が経過し、今では静かな福井の山間となった一乗谷だが、朝倉氏の屋敷だった跡地に立派な庭園だけが残っている。屋敷が焼かれても石が焼けることはないし、誰かが意図的に壊さない限り400年そこらでは自然に還るものでもない。この諏訪館跡庭園は義景の妻の館にあった庭園で、一乗谷で最も規模が大きい庭園である。

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 一乗谷にて。

 平成最後の夏。朝からずっと炎天下を歩き回っているのでさすがに疲れてきた。日陰のベンチに一人座って、この荘厳な庭園と対峙する。今は苔むした庭園も、越前の覇者朝倉氏の栄華を確かに今に伝えている。かつてここに朝倉氏の立派な屋敷が建ち、領主や客人がこの位置から立派な庭園を眺めていたのだろう。そして当時を伝えるものはこの棄てられた庭園だけ。
 
 一乗谷駅に戻り、13時07分発の九頭竜湖行きに乗車した。2両編成の車内は混んでいた。それもそのはず。実は私が今朝一乗谷駅に到着した9時26分から、3時間半後のこの時間まで列車が一本も無いのだ。福井駅と越前大野駅の間は並走する道路を京福バスが1時間間隔で結ぶ一方、鉄道の方は一日9往復とやる気がない。なお越美北線の開通は鉄道としては比較的最近のことで、越前大野までが昭和35年12月、終点の九頭竜湖までが昭和47年11月である。

 足羽川に掛かる真新しい鉄橋を渡る。平成16年の福井豪雨ではこの川に掛かる5本の鉄橋が流され、全線復旧まで3年を要した。美山の先で足羽川が別れ山間に入る。視界が急に開けると大野盆地で、遠くに山城が見える。街の入口である北大野で降りる乗客も多い。13時45分、越前大野着。ここで列車を降りる。

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 越前大野駅にやって来ました。

 越前大野駅では観光案内所の職員さんから
「越前おおの食べ歩き見て歩きマップ」を手渡された。越美北線で訪れた観光客に配布され、市内の循環バスと観光施設の入場料が無料、そして市内の飲食店で利用できるクーポンが付いて、1000円相当のものらしい。それを無料で手渡してくれるとはたいそうなおもてなしだ。

 越前大野は天正3(1537)年に織田信長の配下だった金森長近がこの地に城を築き、以後「北陸の小京都」と呼ばれる碁盤目状の街が形成された。市内のあちこちに湧き水があり、水の都とも呼ばれている。駅前から循環バスに乗って街の中心部へ向かう。まずはお城に登りたい。標高249mの亀山の上に天守閣が建つ。天守は昭和43年に再建されたものだが内部には歴代藩主の物が多数展示されていた。

 城下町を訪れた際は必ず天守閣に登るようにしている。お城から街を見渡す。まるで殿様になったような気分だ。

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 天空の城、越前大野城

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 大野盆地を一望。

 
越前大野は戦災や大火を逃れた貴重な城下町で、武家屋敷や寺内町がそのまま残っている。お城を含め越前大野駅で頂いたマップを掲示すればどれも無料で拝観できる。そして市内のお菓子屋さんや酒屋ではお土産を頂くことも出来る。なんとも素晴らしいおもてなしだ。こうして北陸の小京都をぷらぷら歩いていると古風な銭湯を発見。今夜も大垣駅から上りのムーンライトながら号で帰京するので、朝から一乗谷、大野と歩きっぱなしだったので此処で汗を流すのも良いだろう。

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 銭湯発見!迷わず入ります。

 
男湯は私の貸切状態で、番台のお父さんが色々と話してくれた。ここ亀山湯は明治35年創業の由緒ある銭湯で、わざわざ遠くから見学に訪れる人も多いそうだ。現在の建物は昭和初期のものだが。それでもこう、これこそ銭湯という感じがある。

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 これぞ銭湯!ご主人が煙草を燻らせながら店番中。

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 男湯は私一人の貸し切りだった。

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 では、これより東京へ帰ります。

 
銭湯でさっぱりした後越前大野駅へ。17時09分発の福井行きで撤収する。帰りの列車は1両だがガラガラだった。大野盆地を暫し走った後山間に入る。そして再び足羽川と邂逅し、一乗谷から先は福井市の郊外を走る。この先の予定は福井から再び北陸本線で米原に出て、大垣からムーンライトながら号で帰京するだけだ。0泊3日の強行軍だが、ムーンライトながら号で往復すると思いの外色々な土地を巡ることができる。今回もなかなか有意義な旅であった。そしてこの後は列車を乗り継ぎ東京へ帰るのみ。

ふたたび、かがり火の灯る頃に。

 最後のかがり美少女イラストコンテストから7年も経ってるし、もう自分のような老いぼれに出る幕はないと静観するつもりだった。でも青春時代を過ごした街と、お世話になった人達にもう一度だけ逢いたくて、後悔はしたくなかったのでかつての面子と一緒に羽後町まで行ってきた。結論から言うと、みんな元気でやっていますよと。ながやのご両親はちゃんと私のことを覚えてくれていたし、主催の山内さんとも何年かぶりに再会して話が出来た。会えなかった人がほとんどだけど、ほんの一瞬だけ若かりし頃の自分に戻れたような気がする。

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 「ただいま。」

 かがり美少女イラストコンテストとは平成19年から23年までの4年間、秋田県羽後町の夏祭り「かがり火天国」に於いて、街の名勝である西馬音内盆踊りに因んだ美少女イラストを投稿し順位を競ったというものだ。私はそこに毎回投稿し、第1回では入選し賞状と記念品を頂いた。その時の賞状は今でも部屋に飾っている。主催者はこの街出身の大学生だった山内さん。そして私はこの時秋田市からやって来た佐々木さん(と、呼ばせていただきます)と出会い、この3人の青年たちは持ち前の個性と若さと行動力で次々と周囲を巻き込み、この秋田の田舎町から全国的なムーブメントを巻き起こした。そして世の中をちょっとだけ、いや、長い目で見れば大きく変えた後、この街は使命を終えて元の静かな街に戻った。もう7年も昔の話である。

 私は秋田に4年間留学していたんだと思っている。都会育ちの自分にとって自然溢れる羽後町はキャンパスで、町の方々は皆先生で、そして自分たちは栄えある一期生だ。中でも俺たち3人は優秀な成績を修めクローズアップ現代に出た。卒業後3人は別々の道を歩み、自分は東京に戻って平凡なオタクとして生きる道を選んだ。でもここで学んだ4年間があったからこそ、次のステージで自分を大いに表現し活躍出来たんだと思う。そしてそれは人生の大きな糧となった。 

 私が美少女イラストやマンガを描くことは一貫して「世の中への抵抗」である。今も昔も、この納得がいかない世の中に対する私なりの抗議だ。第1回かがり美天国が行われた平成19年、当時オタクや美少女イラストに対する世間の、主にマスコミの風当たりは非常に強かった。何の取り柄もない自分が唯一人並み以上に出来ることが絵を描くこと。なのに世間は「萌え~」だの「アキバ系」だの言って俺たちを馬鹿にする。そんな世の中が許せなかった。その思いを私は当時ネットの主力であった個人ブログに毎日のように書き込み、一部の人々の共感は得ることが出来たが、世の中を変えるにはほど遠いことだった。

 10年以上も前。ふとしたきっかけで東京から羽後町までやって来た私と、山内さん、佐々木さん、そして周りの青年たち、みんな同じようなことを考えていたような気がする。美少女イラストは可愛くて素晴らしいという本質を知ってもらいたい。そして私達は行動を起こしそれを実現させた。もちろん私達だけの手腕だけでなく、世の流れもあっただろう。そして10年が経った今、世の中は概ねかつての自分達が思い描いていたように変わったような気がする。私達は全力を出し切った。

 今回のかがり火天国は完全に「部外者」の立場で見た。一応イラストは投稿したが、まあ生存報告だ。それでもかつてかがり美少女の座を競い戦った仲間たちの名前を見ることが出来た。みんな元気そうでなによりだ。そして今回イベントを支えるスタッフ達は地域の町おこし隊ということだ。留学時代は方向性の違いから対立したこともあったけど、10年も経ってしまった今はもうそんなことはどうでもいい。考えようによっては自分たちがめちゃくちゃやった後の後始末をしてくれていたということだろう。そしてゲストとして来町したアイドル声優二人組が現れる。第1回では無理矢理最前列を確保したトークショウを、今年は盆踊り会館前の最後尾で眺めた。そして投稿作品の優秀賞が決定し、主催者から記念品が贈呈される。もうこの老いぼれの出る幕はない。かつての自分たちがしたように、これからは若い人が新しい時代を作っていってもらいたい。時代は変わった。世間の風当たりに必死で抵抗し美少女イラストの本質を広めようとした若い自分たちは、もう居ない。

 時代は大きく変わった。しかし今の世の中には、まだまだ納得がいかないことが沢山ある。戦う場所は違うけど、引き続き世の中に対しては抗議していこうと思っている。ぶっちゃけイラストより4コマ漫画の方が得意だし。私は私なりのやり方でやっていこう。ほんの一時でも昔の自分に戻れたし、今夜は来てよかったと思う。そして東京に戻って、また新たな場所で戦っていきたい。祭たけなわの羽後町を去る。次に此処へ来るのは一体いつになるのだろうか。それでもまたあの橋の袂で、鳥海山に向かってただいまと言いたい。そんな真夏の夜の夢。
 
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 此の老いぼれにも、まだまだやらねばらなぬことが、あるのだ。

青森県のイエス・キリストの墓を訪ねる

 今から30年以上も昔の話になる。当時の子供向けオカルト雑誌に「青森県にイエス・キリストの墓がある」との記事があった。キリストはエルサレムのゴルゴダの丘で処刑されたはずだが、何故日本の、しかも青森県の山奥に?半円の盛り土の上に、人の背丈ほどの白い木製の十字架が立つ構図が子供心に不気味だった。

 ■青森県新郷村・キリストの墓
 http://www.vill.shingo.aomori.jp/sight/sight_main/kankou/sight-christ/

 あれから30年以上が経ち、何故今更「キリストの墓」を思い出したのかは解らない。子供の頃は遥か遠くの地であった青森も、大人になった今なら訪れることは難くない。文明の利器インターネットを使うとキリストの墓があるのは青森県の新郷村。アクセスは八戸駅から路線バスで五戸、更にバスを乗り継ぎ新郷村、そこから村営バスでキリストの墓の前まで行くことが出来るらしい。ちょうどこの週末私は北海道に用がある。渡道前に青森のキリストの墓を訪れ、八戸から深夜フェリーで北海道へ渡れば良い。こうして東京始発7時40分の「はやぶさ49号」に乗り、八戸駅へとやって来た。

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 東京八戸3時間なんじゃいな

 季節は6月下旬。梅雨の東京は毎日のように雨が降り続いているが、ここ北東北は晴れの天気では無いものの、しばらく雨の心配はなさそうだ。これから向かう北海道も週末にかけて雨の心配は無いらしい。まずは駅構内の南部バス営業所で「新郷・八戸乗り継ぎ乗車券」を購入した。新郷村へはこれより2本の路線バスを乗り継いで向かうが、八戸駅で前もってこの乗車券を購入すれば運賃が200円割引の合計800円になるという。今ではこういう情報も前もってネットで知ることが出来る。まったくもって便利な世の中だ。

 八戸駅11時30分発の五戸行きバスはやや遅れてやって来た。既に八戸の市街で乗客を乗せた後で、程良い乗車率で発車した。バスは東北新幹線をオーバークロスして八戸の郊外を走る。停留所毎に買い物袋を持った老人たちが敬老パスを見せてバスを降りていく。全国どこででも見られる、平日の昼の光景だ。彼らは八戸の郊外でほぼ全員が降りていき、バスが五戸町に入る頃には乗客は私を含め2名になってしまった。
 
 五戸の市街に入る。ここ南部地方には一戸から九戸までの地名が連続し、鉄道の駅があるのは一戸、二戸、三戸、八戸の4つで、地名としては四戸だけが欠けている。すると「金ケ沢」の行き先表示を出したバスが現れ私のバスとすれ違った。金ケ沢とはこれから向かう新郷村の地名で、もしかしてあのバスに乗らなきゃいけないんじゃ?バスは五戸の市街を突き切って終点の五戸駅に到着する。ただっ広い構内はバスの車庫として使われており、営業所もある。係員に尋ねるとやはりさっきのバスが本来乗るべき金ヶ沢行きのバスだったらしい。要するに今私が乗ってきたバスが定刻より少々遅れていて、金ヶ沢行のバスは八戸からのバスを待たずに発車してしまったということだ。係員は「中央のバス停で乗り換えていただければよかったのに」と話すがそんなこと余所者には解らない。次のバスは2時間後で、ここで2時間も無駄にしてしまうと本日中に八戸へ戻れない。万事休すだ。

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 街外れの五戸バスターミナルは鉄道の名残がした。

 ここ南部バス五戸駅はその名の通り昭和44年に廃止された南部鉄道五戸駅の跡地で、構内にも南部鉄道の記念碑が立っている。さしずめ今乗ってきたバスは南部鉄道の代替バスといったところであろう。だがそんな事を言っている場合ではない。私は駅前のタクシー営業所に飛び込み「新郷村まで幾らで行けますか?!」と言った。新郷村の中心地が南部バスの金ヶ沢バス停で、キリストの墓へはそこから村営バスに乗車する。村営バスが金ヶ沢を出る前にタクシーで着いてしまえばキリストの墓へ向かうことが出来るのだ。

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 ここまで来たんだ!タクシーに課金してやる。

 初老の運転手は3500円だと言う。なら決まりだ。私はタクシーに飛び乗り、一路新郷村を目指すことになった。

 せっかくだから運転手にキリストの墓について色々尋ねてみよう。やはりキリストの墓へ向かう客は時々乗せるらしく、この春先は月に6組程居たという。ネットで瞬時に正解に辿り着ける時代でも現地に行かねばその真相は解らない。ここへ来る前にネットで色々調べたところ、青森のキリストの墓に関するサイトを沢山見つけることが出来た。ネットの情報に次々と触れていると、これは本当にキリストの墓ではないかと思えてくるようになる。

 思い切って運転手に「あれは本当にイエス・キリストの墓なんですか?」と聞いてみた。運転手は「違うと思いますよ」という表情をしつつも、「そうかもしれませんね」とだけ返した。タクシーは一路曰く付きの村へと伸びる一本道を走る。タクシーは五戸町から新郷村へ入り、「キリストの里公園まで4.6km」の看板が見えた。

 暫く走ると前方に路線バスが見えた。あれが先程五戸町で私を置いて行ったバスだ。このままタクシーがバスを追い抜いてくれればいいが、ここは安全運転を優先してもらいたい。新郷村の中心地へ入り、バスが診療所の前に停車した隙にタクシーはバスを追い抜いた。そしてそのまま金ヶ沢のバス停の前でタクシーを降ろして貰う。料金は3590円。キリストの墓へ向かう村営バスはまだ来ていない。間に合った。

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 此処が新郷村の中心地、金ヶ沢。

 暫時経って白いワゴン車がやって来た。車体に「みずばしょう号」と書かれ、運転手の他に老婆が2名乗っている。先程の診療所からの帰り道であろう。村民の通院や買い物のほか、五戸行きのバスとも上手く接続し、村民の足として機能している。そのため土曜日は大幅に減便され、日曜日は全便が運休となる。なので公共交通機関でキリストの墓へ行けるのは平日だけなのだ。老婆は運転手と顔馴染みらしく、生粋の南部弁で世間話に高じている。家を改築したり車を買い替えたりして出費がかかるという話題なんだろうが、どうも東北の言葉は難解である。

 10分ほどしてバスはキリスト公園前のバス停に到着した。運賃は無料で、運転手にお礼を言ってバスを降りた。老婆も「いってらっしゃい」と私に声をかけた。青森のイエス・キリストの墓は公園として整備されていて、紫陽花が咲く階段を登りきると左右に二つの塚、そして白い木製の十字架が立っていた。向かって左が弟イスキリの墓、右がイエス・キリストの墓だという。

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 キリストの墓に来てしまった。

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 バス停の前に「キリストっぷ」という土産物屋があるのだが・・・

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 営業時間は日曜日の十字架ら三時まで。物理的に来れない。

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 公園を進み、この階段の上にキリストの墓がある!

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 これが十来(とらい)塚、イエス・キリストの墓と云われている。

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 キリストの墓説明文

 みちのく青森の山奥の村、新郷村。新緑が咲き、紫陽花が実り、梅雨時の薄曇りの空の下、全国何処にでもありそうな六月の風景だ。そして此処には私一人、そして眼の前にはイエス・キリストの墓と云われる小さな塚。子供の頃に読んだそれと全く同じものが今目の前にある。説明書きによるとイエス・キリストは21歳の時に日本に渡り、12年間の修業の後に故郷のエルサレムに戻り、キリスト教を伝道する。後に彼は捕えられ十字架の刑に処せられるのだが、磔にされたのは兄の身代わりとなった弟のイスキリで、キリストは密かにエルサレムを脱出して日本へ戻り、ここ新郷村で106歳の天寿を全うしたとある。

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 手前がキリストの墓、向こうが弟イスキリの耳塚、奥がキリストの館伝承館

 階段の先の「キリストの里伝承館」に入る。新郷村のキリスト伝説は昭和10年に発見された竹内文書が元で、文書は戦災で消失したがそのうちキリストの墓に関するものが複写し残されていた。館内の映像では新郷村のキリスト伝説とピラミッドの謎について学ぶことが出来る。聖書ではキリストが21歳から33歳までの間が空白になっているが、それを補完しているという竹内文書によると彼は21歳で能登半島の港に上陸し、越中の賢者の元で学びつつ日本各地で修行し、33歳で故郷へ帰りキリスト教を伝道する。弟を身代わりに処刑を逃れたキリストは再び日本の地を踏み、ここ戸来村を安住の地と定め、妻を娶り106歳の天寿を全うした。とあった。

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 キリストの館伝承館に入る。

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 新郷村の古民家、典型的な東北の集落だ。

 平日にも関わらず記念館には何名かの来客があった。こんな青森県の山奥まで物好きな。だがこの記念館はあくまで竹内文書の紹介がメーンで、肝心のキリストの墓の真偽については全く触れられていない。あくまで来館者の歴史認識に委ねるという姿勢だった。竹内文書そのものも当時から荒唐無稽の評価であり、現在も世間の認識は変わらない。あの塚がイエス・キリストの墓であるかどうかの真偽は、まあ言うまでもないだろう。

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 沢口家の家紋は星。ダビデの星を表しているというが。

 キリストの墓に向かうように日本式の墓がある。沢口家の墓とあり、村の名士の墓らしい。そしてその沢口家はイエス・キリストの末裔を名乗っている。キリストはここでミユ子という女性と結婚して三人の娘を授かり、その中の一人が沢口家に嫁いだという。キリストは此の地で十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改め、禿頭白髪、赤ら顔の鼻高の容姿であったという。そして資料館で見た沢口家前当主の写真も、言われてみればどこか日本人離れした表情である。
 
 帰りの「みずばしょう号」は私一人の貸切だった。運転手は私の身なりを見て一目で余所者と解ったらしく、どちらから来られました?と尋ねてきた。東京からと応えると、いやまあよく来たねと。「何もなかったでしょ?小さい塚が二つあるだけ。」この運転手も「あれはキリストの墓なんかじゃない」という表情をしつつも、「まあロマンだよね」と語った。実際村の人達もそう思っているのだろう。そしてそんな与太話を町おこしに利用してしまう強かさに感心してしまう。

 だが太古の昔、この村に忽然と異な人が現れた。村の人達は彼を受け入れ、自らのコミュニティの一員として迎え入れた。竹内文書の遥か昔から、村ではこの塚は要人の墓だと言い伝えられ、沢口家は代々それを守るように命じられていたという。
近代になって胡乱な文書によりイエス・キリストと結びついてしまったが、そのような事象ならかつてあってもおかしくない。そしてこの東北の地には、異な者を暖かく迎え入れる土壌が根付いている。ふと、昔の自分自身のことを思い出してしまった。 

オリーブの風に吹かれて~2日目

 小豆島の宿で目覚めると雨が降っていた。南海上の超大型台風が徐々に接近していて、明日の夜に関西地方を直撃すると宿のテレビが伝えている。もっとも島の観光は昨日一日で全て済ませてしまったので、今日は路線バスで島の北側を回って福田港へ行き、そのままフェリーで本州へ戻るだけだ。宿のおばあちゃんから缶コーヒーとパンを貰い、六畳一間の一室で旅先での朝御飯を頂く。窓の外の雨はどんどん強くなってくる。
 
 午前8時、宿を出た。宿のすぐ前が土庄の港で、ここから小豆島各地へ向かうオリーブバスが発着する。雨が降ってなければ土庄の市街まで歩くのだがこの天気だし、2日間のフリーパスがあるのでバスを待つ。港に本州から朝一番の船が到着し、大きなトランクを持った中国人観光客がゾロゾロと降りてきた。何もこんな日に島に来なくてもいいのに。彼らと一緒に乗り込んだオリーブバスで、まずは土庄の中心街へ。
 
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  土庄の中心街。右側の建物が町役場。

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  東洋紡績渕崎工場跡。このバス停は土庄のジャンクション的役割も果たし、北回りバスはここで乗り換えとなる。
 
 土庄の街は高潮や海賊から街を護るため入り組んだつくりになっていて、迷路のまちと呼ばれている。昨日エンジェルロードからの帰り道は日が暮れてしまい一時迷子になってしまった。再び土渕海峡を横断し、対岸の渕崎に渡る。かつてこの一帯には昭和8年操業の東洋紡績渕崎工場があり、長らく小豆島の経済を支えていたが平成15年に70年の歴史に幕を下ろした。跡地にはショッピングセンターやファミリーレストランが進出しているが、まだ開発されていない空間も目立つ。跡地の片隅のバス停から8時48分発の福田港行き北回りバスに乗車した。

 昨日通った小豆島の南半分は田ノ浦映画村やオリーブ園など見所が多いが、北半分はこれといった見所もなく、少ない乗客を乗せたバスは雨の瀬戸内海に沿って淡々と走る。だが一つだけ行ってみたいところがあり、それが大阪城残石記念公園と記念館。ここなら雨の日でも訪れやすいと思い二日目の行程に組み込んだ。記念館のすぐ前がバス停で、ここで一旦バスを降りる。

 時は江戸時代。大阪の陣で落城した大坂城を幕府により再建する兆しが高まり、まず石垣が全国から大坂に集められた。小豆島からも多数の石垣が切り出され運ばれたが、出荷を前に石垣が完成してしまい、小豆島の海岸に残されてしまったこれらの石は「残念石」と呼ばれる。建築資材の過剰調達は別によくある話だが、問題はこの石。当時の武家諸法度では城の建築、修繕は厳しく取り締まれれており、この石が他藩の手に渡ってしまうことはあってはならない。石は幕府の手で厳重に管理され、明治の初めまで動かすことすら許されなかった。

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  島の海岸に集められた残念石群。

 だがこの残念石は地元にとっては迷惑な存在だった。通行や仕事の邪魔になるだけではなく、中には資材置き場として自分の土地を一時的に提供したものの、石が置きっぱなしでは自分の土地を有効に活用することが出来ない。それでも土地には年貢と言う名の固定資産税がかかる訳で、これは不公平だと役所に訴えた古文書も記念館には残っていた。そんな残念石が現代はこの公園に集められ、海岸に一列に並べられあてもなく雨に打たれている。この公園以外にもこの辺には当時の残念石が幾つか残っているそうだが、それは次回晴れてる日のお楽しみにしよう。次のバスは2時間後。小さな記念館と公園だけなら時間は十分に余ってしまう。雨はどんどん強くなる。休憩所で持ってきた本など読みながら、ゆっくりとバスの時間を待った。

 やって来た福田港行きのバスは私の貸切だった。私はバスに乗る際、一番前の特等席を意地でも奪取するように努めている。前方の景色が眺められるどころか、バスが空いていれば運転士さんが話し相手になってくれることもある。「観光?」と尋ねてくる運転士さんに、観光を終えてこれから本州に戻るところですと応えた。運転士さんが言うにはこの台風で本州へ戻る船も欠航する恐れがあるらしい。雨は強いが風はまだ強くなく、なんとか姫路港へ戻る船には乗れそうだ。

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  小豆島の北側は海岸線が続く。時折小さな集落が現れ、左手には瀬戸内海。

 島の北側、大部のバス停で男の子が二人乗ってきた。対岸の日生との間に本州最短の航路があり、昨日はこの船で小豆島に渡ってきてもよかったなと思った。雨は強さを増す一方でバスのワイパーが左右に動く。左手は鉛色の瀬戸内海。本州は見えない。小豆島北東部、瀬戸内海に突き出た半島の付け根を峠で越えると眼下に福田の町並みが見えた。港にこれから乗船する姫路港行きのフェリーが泊まっている。11時35分、振り出しの福田港に戻ってきた。これにて二日間かけて島を一周し、小豆島紀行は終了。

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  福田港に到着。バスはそのまま南回り線となり、土庄へ戻る。

 
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  さようなら小豆島。また来る日まで。

 11時40分発の姫路港行きは昨日と同じ「第三おりいぶ丸」だった。土曜日の午前とあって、島から本州へお出掛けする人でそこそこ賑わっていた。乗り込むと船はすぐ出航する。今回はあまり天候に恵まれなかったが次に来る時は春か夏に、土庄でバイクを借りて自分で島を一周してみたい。いや、今回行けなかった寒露渓に紅葉を見に行くのも良いだろう。船内には小豆島の観光地図が貼ってある。昨日「丸一日あれば島内の名所はだいたい回ることが出来る」と書いたが、こうして見るとまだまだ訪れていない名所がたくさんある。早速次の旅が楽しみになってきた。

 降りしきる雨の中、福田の港が、小豆島がどんどん遠ざかる。そういえばもうお昼時。「第三おりいぶ丸」には軽食コーナーもあり、さすが香川県といったところか讃岐うどんが味わえる。うどんと、缶ビールと、土庄の宿でおばあちゃんから貰ったおつまみで軽く一杯。雨に打たれる瀬戸内のしまなみを見ながら。姫路港まで約1時間半の、贅沢な一時。  

オリーブの風に吹かれて~1日目

 東京からのサンライズエクスプレスが夜明け前の姫路駅に到着した。向かいホームに岡山行きの山陽本線始発列車が停まっていて、大きい荷物を持って乗り換える乗客もちらほら居る。我が国最後の定期夜行列車は、今朝もこうして首都と山陽を結ぶ重要な役割を果たしていた。

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  夜明け前の5時25分、サンライズエクスプレス号、姫路着。瀬戸編成のノビノビ座席からも何名かが降りていった。

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  早朝のJR姫路駅。今日は週末の金曜日。また新しい一日が始まる。

 駅近くの牛丼チェーン店で朝定食を頂き姫路駅へ戻る。既に夜は明けており、早起きの通勤通学客の姿が多くなってきた。これよりフェリーで小豆島へ上陸し、今日、明日の二日間かけて路線バスで島を一周し、ここ姫路駅に戻ってくるプランを立てている。だが今年の秋は秋雨前線に勢いがあり雨の日が多く、しかも南海上には現在超大型の台風があって徐々にこちらに向かってきている。昨日の東京は終日冷たい雨が降り続いていた。姫路上空の薄暗い空からは今にも雨が降ってきそうだが、予報ではこちらの雨は今日一日だけギリギリ持つらしい。引きの強さを信じて、昨夜は下りのサンライズエクスプレスに飛び乗った。

 高架化工事が完成し見違えるようになった姫路駅。駅前の神姫バスターミナルから市内の各地へ向かう路線バスが発着する。学生時代ここで1日だけアルバイトさせてもらったことを思い出しながら、6時40分発の姫路港行きのバスに乗車した。思いの外通勤、通学風の乗客が多く、大半が終点まで乗り通した。小豆島へ向かうフェリーは市の南側にある飾磨の港から発着し、昭和61年までは姫路駅と港を結ぶ国鉄飾磨港線が存在していた。先程見た遊歩道は飾磨港線の廃線跡だろう。もし現在も飾磨港線が健在なら、今朝は姫路駅でサンライズエクスプレスから飾磨港線の始発列車に乗り換えたのだろう。飾磨港駅の跡地には多目的ドームのしらさぎ姫路みなとドームが建っている。

 バスは20分ほどで姫路港へ到着した。そして、残念なことにここで雨が降り出してしまった。古ぼけたターミナルで福田港までの往復券を購入し、傘を差して「第三おりいぶ丸」に乗り込んだ。その隣の家島へ向かう船の乗り場にはスーツ姿の乗客が列を作っている。小豆島は香川県に属するが家島諸島は兵庫県姫路市で、島へ向かう出張族や公務員が多いのだろう。

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  秋雨の中、小豆島へ向かう「第三おりいぶ丸」が待っていた。
 
 小豆島へ向かう「第三おりいぶ丸」は7時15分に姫路港を出航した。乗船客は総勢20名くらい。工事関係者とみられるおっちゃんが多く、座敷に寝転んでスポーツ新聞を読んでいる。後は旅行者ぽいおひとりさまのシニア客がちらほら。一組家族連れが居て、小さい女の子の元気な声が船内に響く。天気が良ければデッキで島風に吹かれるのだが生憎の雨。小豆島の福田港までは約1時間半、この間で私は今日明日の島での行程を一から練り直した。今夜は島に泊まって明日の夕方ここ姫路港に戻ってくる予定だが、天気予報によると今日は曇りで明日は一日中雨。ならば観光は今日一日に集約して明日は島内の移動だけにしたい。小豆島の面積は150平方kmと東京23区の4分の1程度で、言う程観光名所は多くない。島内はバスの本数も多く、朝から丸一日あれば島内の名所はだいたい回ることが出来る。後はこの雨が島に着くまでに上がってくれるかだ。
 
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  雨の播磨灘を往く。近くに家島諸島が見える。ちょうど姫路港へ向かうフェリーが過ぎていった。

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  この天気では島へ渡る人も少ない。「おりーぶしまちゃん」の向こうで、女の子がポーズを取ってくれた。

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  初めて来た小豆島は雨が降っていた。
 
 8時55分、「第三おりいぶ丸」は小豆島の東の玄関口、福田港に到着した。雨はまだ降り続いている。まずは港の切符売り場で小豆島オリーブバスの二日券を購入した。今日明日と小豆島の路線バスが乗り放題で1500円という安さである。小豆島オリーブバスは7年前の2010年に地元の路線バスの撤退を受けて発足し、国と県からの補助もあり路線と運行本数の拡大、そして運賃も上限300円に据え置かれている。小豆島も全国と同じく過疎化と高齢化という問題に直面するなか、この取り組みは面白い。バスは私を含むフェリーから乗り継いだ乗客2名を乗せて発車した。

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  オリーブ色に塗られたオリーブバス。島の貴重な足。

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  島の内陸部には長閑な光景が広がる。料金箱上の運賃表示器は300円で止まっていた。

 バスは播磨灘に面した小豆島の東海岸を走る。途中の集落から地元民が乗り込み、バスは程良い乗車率になった。以前神姫バスでアルバイトをした際に運転士さんから「路線バスの採算ラインは常に5人乗っている状態」と教わったが、行政からの補助があるとはいえ上限300円の運賃で採算が取れるのだろうか。橘の集落の先で一旦海と別れ内陸部を往く。雨は幾分弱まり、水田と田畑が広がる山間に低い雲が掛かっている。旧内海町の中心部、安田で私はバスを降りた。そしてここで雨は一旦止んだ。
 
 温暖少雨な瀬戸内気候の小豆島は醤油とオリーブの島。ここ内海町も街を歩けば至る所に醤油工場の建物があり、雨上がりの空気に仄かな醤油の香りが鼻を突く。江戸時代、天領であった小豆島は瀬戸内海の海運を活かして大豆や小麦を集め、それを醤油に加工して大坂へ出荷する加工貿易で財を成していた。

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  雨上がりの街並みに醤油工場がよく似合う。辺には仄かな香りが漂う。

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  日本が世界に誇るマルキン醤油。ここ小豆島が発祥地。

 中でも有名なのがマルキン醤油。明治40年に創業し、関西では醤油メーカーのブランドとして知名度が高い。現在は名古屋の食品メーカー盛田の傘下となったが、今でも小豆島に広大な工場を有し、一角はマルキン醤油記念館として一般公開されている。江戸時代から続く醤油製造の過程や歴史が展示され、終戦後の天皇行幸をはじめ皇族の訪問も多い。小豆島の醤油は今でも島民の挟持なのだろう。

 館内は平日にしてはそこそこ賑わっており、マイクロバスで乗り付ける団体客が多い。裏を返せば小豆島にはここくらいしか観光名所がない。工場の一角に売店があり、マルキンブランドの醤油や、醤油ソフトクリームや醤油ソーダーなるものまでもが売られている。さすがにソフトクリームは遠慮したいがソーダーならなんとか飲めそうだ。コカ・コーラを濃縮したような茶色に、飲んでみればそこまで不味くもなく、そして美味しくない。雨は上がったが気温が低く一気に体が冷えてしまった。「丸金前」と書かれたバス停から岬へ向かうバスに乗り、次なる目的地「二十四の瞳映画村」へ向かう。

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  丸金前バス停から岬の先端に向かうバスへ。

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  岬の先端から島に向かって一枚。雨は止んだが、山の上には低い雲が掛かっている。

 バスは小豆島の南東部、高松や神戸へ向かうフェリーが発着する坂出の港へ立ち寄り、瀬戸内海に突き出た半島の最端部へ向かう。バスは終点の「田ノ浦映画村」に到着。ここは壺井栄『二十四の瞳』を昭和62年に映画化した際のオープンセットがそのまま残され、現在もドラマやCMのロケ地として使われている。

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  「二十四の瞳」岬の分教場のロケセット。

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  教室から瀬戸内の海が見える。

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  教室のセットも当時のまま。

 『二十四の瞳』の「聖地」は作品には記されていないが、作者の壺井栄が小豆島の坂出の出身であることから、ここ田ノ浦の分校がモデルではないかとされている。村内にはロケで使用した「岬の分教場」の建物をはじめ、壺井栄文学館、50年代邦画を紹介する「キネマの庵」や、『二十四の瞳』をはじめ映画をエンドレスで放映する映画館までもが存在する。同じく小豆島がロケ地に選ばれた角田光代『八日目の蝉』を紹介するコーナーもあった。心配していた雨はすっかり上がり、分教場の前の砂浜からは瀬戸内の海が見渡せる。『二十四の瞳』は小学校だか中学校の時に読書感想文を書いた記憶があったりなかったりするのだが、壺井栄の夫の繁治は熱心な共産党員で、戦時中には治安維持法違反で投獄された経験を持つ。文学館には獄中の夫からの書簡も展示されていた。『二十四の瞳』も日本が戦争へと突き進んでいく時代がテーマで、夫や教え子たちを戦争で亡くしつつも前向きに生きる女教師を彼女なりの主観で描いている。

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  雨は完全に上がった。瀬戸内海の潮の香りがする。

 「岬の分教場」のモデルと言われている学校は明治35年に建てられた田浦尋常小学校とされている。後に苗羽小学校田浦分校となり、昭和41年まで現役の校舎として使用された。映画村の手前、徒歩10分ほどの田浦の集落の海沿いに校舎が建っている。低学年、中学年、高学年と分かれた三つの教室は閉校当時のままに残され、教材や教室に貼られた児童の作品も昭和41年のままだ。ここ田浦分校は今でも「教育の原点」として、全国から教職員やOBが訪れている。黒板には教員を志願する若者に向けた寄せ書きがあった。そういうば私も教職を目指した時期があったっけ。別の世界線にはどこかの中学か高校の社会科教師として、今日ここを訪れている自分が居るのかもしれない。

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  こちらがモデルになった苗羽小学校田浦分校。

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  この学び舎は昭和四十一年の春から時が止まったまま。

 『二十四の瞳』が昭和初期の一人の女教師が主人公の純文学なのか、反戦小説であるかはさておき、今の日本にはあの頃と同じ閉塞感が漂っているように感じる。その正体が何であるかは私には解らない。30年間続いた平成が間もなく終りを迎える頃、来るべき新しい時代の日本は一体どこへ向かっているのか。島の小さな集落にも香川1区のポスターが貼られた選挙掲示板が建ち、一台の選挙カーが通り過ぎる。果たして明後日の衆院選ではどんな結果が出るのだろうか。目の前には穏やかな瀬戸内の海が広がっている。

 岬の先端で約3時間の時を過ごし、分校前のバス停から土庄へ向かうバスに乗り込んだ。バスはほぼ満員で、私は最後に空いている一席に座った。乗客の大半は中国からの観光客だ。そういえば先程の映画村でも中国人観光客の姿が目についたことを思い出した。この便は年配の運転手さんが地声でユーモラスな観光案内をしてくれる。「この中に明治生まれの方は居られますか?小豆島にオリーブが持ち込まれたのは明治41年のことです。私は平成生まれですけどねw」等。朝も通った安田のバス停で中国人はみんな降りてしまった。乗り継いで福田港へ向かい本州へ戻るのだろう。

 バスは内海湾に沿って走る。海の向こう、岬の先端がさっきまで居た田ノ浦だ。山側の中腹には内海湾が見渡せる道の駅小豆島オリーブ公園があり、バスはここで右にハンドルを切って山を登る。どうもこの便はオリーブ公園の前まで乗り入れるようだ。せっかくだからバスを降りて公園を散策してみよう。小豆島のオリーブの歴史を紹介するオリーブ記念館に、約2000本のオリーブの樹が立つ畑。向こうには瀬戸内海を臨み、遠くに四国が見えている。そしてここも中国人観光客が多い。オリーブの森の中を歩いているうちにバス通りへ戻ってきてしまった。ちょうどバスがやって来たところで、乗り込んで小豆島最大の街、土庄を目指した。

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  オリーブの森から瀬戸内海を望む。左端がさっきまで居た田ノ浦。遠くには四国。

 土庄の街に着いた頃には時刻は夕方4時を回っていた。この街には土渕海峡という名所がある。小豆島は厳密には一つの島でなく本体の島と土庄の街がある前島に分かれ、その間をう。確かに、二つの陸地によって海が狭められている箇所を「海峡」と呼ぶが、ここ土渕海峡は海峡というより川のようである。だが誰が何と言おうがここは世界一狭い海峡なのだ。早速海峡に掛かる橋を横断し、対面の町役場で横断証明書を発行してもらった。料金は立派な台紙が付いて200円だった。

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  土渕海峡をいざ横断。

 そしてここ土庄にはもう一つ名所がある。町の南側、瀬戸内海に面した砂浜と対岸の小島が干潮時に砂州で繋がり、エンジェルロードと呼ばれる砂の道が現れるトンボロ現象である。近年は島を挙げて「恋人の聖地」との触れ込みで観光地化に努め、映画やドラマの舞台にもなっている。本日の小豆島の干潮時刻は17時45分。日没ギリギリの時刻を狙って訪れた。

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  夕暮れエンジェルロード。トンボロが奥の島まで500m程続く。

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  展望台から見渡すエンジェルロード。干潮時のみ現れる神秘的な景色。

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  陽が暮れてきた。そろそろ街へ戻ろう。

 既に陽は西空低くに傾き、辺りは薄暗く気温もかなり下がってきた。それでも夕暮れのエンジェルロードは中国人観光客たちで鈴なりの人。砂州が見渡せる展望台には甲高い中国語が飛び交い、全員でスマホを掲げ自撮りする。先程のオリーブ公園そうだったが、小豆島は関西空港からも近く、そもそも大陸の人間にとって島というものが珍しいのであろう。砂州の真ん中に一人で立って夕暮れ時の海を眺める。恋人の聖地エンジェルロード、道の真中で手を繋いだカップルは永遠に結ばれるとの触れ込みだが、別にそんなことはどうでもよく、インスタ映え狙いの中国人で溢れる砂州でさざなみに足元をすくわれているうちに日がどっぷりと暮れてしまい、そのまま土庄の街に戻った。

 土渕海峡の対岸のジョイフル小豆島店で晩御飯を食べていると突然スマホが鳴った。今夜泊まる宿からで、どうやら18時チェックインで予約していたようだ。18時丁度の電凸とは几帳面な宿である。ジョイフルで晩御飯を食べてから行きますと伝え、路線バスで約5分。土庄の港近くの宿に入った。

 お婆ちゃんが一人でやっているこじんまりとした宿。うるさい中国人が夜中まで騒いだら嫌だなと思っていたが、今夜の宿泊客は私一人のようで、早速貸し切りのお風呂でひと浴びし、六畳一間にお布団を敷いてごろんと横になる。これで一泊素泊まり3000円。宿なんてこんなもんでいい。手元にはさっきお婆ちゃんから貰ったおつまみがあり、島のコンビニでビールでも買ってきて晩酌しようと思ったが、今朝はサンライズエクスプレスノビノビ座席5時起きで急に睡魔が襲ってきてしまい、睡眠欲には逆らえないので、ちと早いがそのままお布団に潜り込んで寝てしまった。 

週末パスで行く、羽後

 昨夜22時半、最終のスーパーあずさ36号で爆睡しながら新宿駅に着いた私は、まだシラフな数個の脳細胞を頼りに中央線で神田に出て、京浜東北線を西日暮里で降り、営団千代田線に乗り換えなんとか自宅に帰ってきた。この間寝過ごすことなく自宅最寄り駅まで来れたのは奇跡かもしれない。そして玄関を開けるなりリビングデッド。それでも今朝は自動で5時半に目が覚めた。長年の慣習、恐るべし。

 酔い覚ましのシャワーを軽く浴びて自宅を出る。常磐線で上野駅へ。ここから週末パスの旅2日目を開始する。まだ二日酔いで軽く頭が痛い。朝から魔剤を投入し、新幹線ホームに降りて7時22分発の「はやて111号」に乗車した。E2系10両編成。今年の秋は雨が多いがこの週末は全国雲一つない秋晴れで、新幹線の高架から眺める青空の下、日曜朝の首都圏の町並みが広がり、その遠くに富士山が見える。東北新幹線は進行方向左側の席に座るとみちのくの山々が見えるのが良い。男体山、那須岳、安達太良山、蔵王。途中ウトウトしながらも仙台に着く頃にはすっかり酔いも冷めていた。
 
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 E2系はやて。はやぶさ号の登場で幾分地味にはなったが、まだまだ東北新幹線の主役。

 今日はこれより仙台から陸羽東線を通って新庄まで行く「リゾートみのり」に乗車する。平成20年の秋に登場したジョイフルトレインで、週末を中心に快速列車として運転されており、510円の指定席券だけで乗車できる。東北には以前縁があってよく通ったがこの列車に乗ったことはなかったため、今日は久しぶりにその縁があった土地へ向かう行程に組み込んだ。深緋色と黄金色の車体が深まりつつある秋を感じさせる。まだ紅葉には少し早いが、実りの秋は今がその真っ最中だ。

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 リゾートみのり号。何気に初めて乗ります。
  
 近郊型気動車キハ47系を改造した車内は大きな窓と、濃茶色のリクライニングシートが並ぶ。よく見ると紅葉の柄がプリントされていた。松島湾や鳴子峡の渓谷が見える進行方向右側の座席に座った。座席はグリーン車並みの1200mmのシートピッチが確保され、大きな窓からは日本の美しい秋の風景が眺められそうだ。ローカル列車で旅するのも良いが、たまにはこういう豪華な列車に乗ってみるのも良い。座席には観光パンフレットと、職員手作りの沿線案内が置いてある。乗客もそう多くはなく、新庄までの3時間強、贅沢な時間が過ごせそうだ。

 仙台9時13分発の新庄行き「リゾートみのり」はキハ47系3両編成。青葉城恋唄のメロディーに見送られて発車した。小牛田までは東北本線を北上。松島の手前で右手に海が見えた。以降列車は「みのり」の名に相応しく一面の黄金の絨毯の中を走る。秋はニッポンが最も美しく実る季節。大きな窓に実りの光景が広がっている。小牛田から「奥の細道湯けむりライン」こと陸羽東線に入り、10時13分、東北新幹線が接続する古川に到着。ここで「リゾートみのり」は10分ほど小休止する。バイブルを捲ると上野8時02分発の「はやぶさ101号」に乗れば、この駅で「リゾートみのり」に乗ることが出来たらしい。要は今朝は40分ほど朝寝坊が出来た訳だ。ホームに降りて外の空気を味わっていると突然地元民らしいお婆さんが鳴子温泉までの切符を見せて、「この列車に乗っていいの?」と聞いてくる。ホームの時刻表を見ると次の鳴子温泉行きは1時間後の11時15分。ここで1時間も待つより、指定席券を買ってでも「リゾートみのり」に乗ったほうがいいだろう。と私は判断して、「別に520円払えば乗れますんで、乗って下さい」と応えた。お婆さん「あら!男の子?女の子だと思った!」と私に言いながら「リゾートみのり」に乗り込んでいく。そういえば今日はA面の姿で来てたっけ。指定席券は無いが仙台発車時点で十分空席はあったし、まあ大丈夫だろう。後は車掌さんに聞いてくれ。

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 松島湾を臨みながら。仙石線の線路も見えている。

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 秋空と黄金色の稲穂。日本の美しい秋の光景だ。

 古川を発車すると2号車のイベントスペースでアマチュアミュージシャンの演奏会が始まった。仙台在住のナイスミドルで、さとう宗幸氏とユニットを組んだこともあるらしい。「今日は私と同年代の方が多いので」ということで、60年代フォークを中心に演奏が始まった。スペースの椅子に腰掛け、イケオジのギターの演奏を聞きつつ、車窓にゆっくりと流れるニッポンの実りの秋。なんて贅沢な時間であろうか。11時00分、鳴子温泉着。「リゾートみのり」はここで23分間停車する。今日はここ鳴子温泉街で芸術祭が開催されており、駅を降りれば早速バンドの演奏に出会うことが出来た。久しぶりの好天の週末とあって多くの観光客で賑わっている。軽く温泉街を散策し、駅前の足湯に浸かって、再び「リゾートみのり」の車内に戻った。

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 リゾートみのり、鳴子温泉駅で小休止。 

 鳴子温泉駅ですっかり乗客を降ろした「リゾートみのり」。この先が陸羽東線の白眉ともいうべき鳴子峡である。観光ポスターでも有名な鳴子大橋と渓谷美。陸羽東線は鳴子温泉駅を出てすぐ、小さなトンネルを抜けた処が最も美しい渓谷を眺めることが出来る。ローカル列車は一瞬で通り過ぎるが、「リゾートみのり」はトンネルを抜けた処で最徐行し、大きな窓に渓谷と、鳴子大橋と、秋の青空が広がった。

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 陸羽東線の殺意の風景といえば、ここで刹那見える鳴子峡に他ならない。

 分水嶺を越えて山形県に入る。すっかり閑散とした車内。最上駅で鳴子温泉行きの反対列車と交換する。ローカル線の秋の車窓と、大きな窓から差し込む秋の日差し。後は終点の新庄を目指して走るのみ。

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 陸羽東線をのんびりと。 

 「週末パス」の有効区間は主に青森県、秋田県、岩手県を除くJR東日本管内だが、僅かに秋田県に入る区間があって、それがこれから乗る奥羽本線新庄~湯沢間である。この区間が含まれるお陰で以前はよくこのきっぷを利用した。新庄12時56分発の秋田行きは701系2両編成。登場当初は賛否両論だったみちのくのロングシート車も、今ではこの列車に乗ると懐かしさを感じてしまう。なんかこう、ふるさとに帰ってきたみたいな。一本前の「つばさ」から乗り継いできた人が多いのだろう。ロングシートに大きな紙袋を置いた乗客も散見される。1時間ほどで週末パスの北限の駅、湯沢に到着。この駅で降りるのはもう何年ぶりになるのだろうか。しばらく見なかったうちに駅舎は立派な橋上駅になり、駅前には立派なバスターミナルが併設されている。10年前にバスを待った駅前の小さな小屋は無くなっていた。

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 新しくなった湯沢駅舎とバスターミナル。
 
 西馬音内堀回行きのバスは少々遅れてやって来た。何度も通った勝手知ったる道。湯沢の市街を抜けて、雄物川に掛かる橋を渡って羽後町に入る。今日も前方に鳥海山が見えている。バスは右折して西馬音内の市街に向かう道に入った。三輪神社の鳥居前を過ぎ、あぐりこ神社の前を通って、羽後町役場前の交差点でバスを降りた。角のタクシー会社はセブンイレブンになっていた。とりあえず役場の方向へ向かう。新しく道の駅うご・端縫の里と書かれた建物が建っていて、地元の名産品が売られている。休日だけあって店内は賑わっていた。もう10年も経ってしまったが、懐かしいものが幾つか見受けられた。

 10年前、ぼくはこの街に留学していた。この街で沢山の人に出会い、沢山のことを学び、若い情熱と行動力と破天荒で世間に打って出て、少しだけ世の中を変えた。少なくとも、ぼくらが居なければ今の世の中はもっと窮屈だったはずだ。これは決して自惚れではなく、本当にそう思っている。

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 二万石橋から鳥海山を望む。此処の風景は10年前と全く変わらない。今でもこの景色を見ると「ただいま」と言えるし、また戻ってくることが出来たと思う。ここはぼくの故郷だ。あれから10年が経ち、今は元の静かな町に戻ったが、それはぼくらが新しい時代を切り拓き、世の中を変えることが出来たことで、元の静かな街に戻ることが出来た結果なのだ。「時代を先取りしすぎた。俺達が若すぎた。」と思うこともあったけど、今ここに来て遂に解った。俺達は時代を先取りする必要があった。若かったからこそ出来ることがあった。あの頃の俺達は凄かった。みちのくの秋の夕暮れは早く、西馬音内川の川面に吹く風は冷たい。でも体が興奮してきて火照ってきた。身震いがする。

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 目の前に飛び込んできた10年前と変わらない景色。あの日のことが走馬灯のように甦る。興奮冷め止まぬ中店内に入ると、急に10年前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。ここは10年前と全く変わっていなかったのだ。番頭の男の子に見覚えがある。随分と大きくなった。そしてそこには青年時代の自分の足跡があった。よく残してくれた。恥ずかしさと、嬉しさと、そして感謝と。

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 街並み。所々変わった。写真館が無くなっていた。街の中心には昭和の終わりにふるさと創世基金で建てられた西馬音内盆踊り会館が立つ。10年前のあの真夏の夜、全てはここから始まった。今ではもう夢のようだ。館内に入る。いつも私を出迎えてくれたお姉さんは居なかったが、代わりの事務員の方は私の身なりを見て、ひと目で余所者と解ったらしく、盆踊りの映像を見ていってくださいと言った。留学時代にこの盆踊りも何度か見に来ることが出来た。700年の歴史の中、その中の数年間だけであったがこの町は大きく全国区に知られることとなり、今までの古い慣習や風習や偏見を破壊し、新しい時代をつくる炎の種火となり、新しい世の中の到来をしかと見届けた後、その使命を終えて幕を下ろした。

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 街外れまで来てしまった。このまま花嫁道中を歩いて堀廻まで行こう。ガンダム、まだここに居たのか。七曲峠に至る一本道を一人で歩く。この町で過ごした青春時代、出会った人、経験したこと、学んだこと、あれ以来会っていない人もいる。ふと一軒の家の前で足を止め、大木を見上げる。そしてまた一本道を前に歩く。日が大分傾いてきて寒い。辺り一面の田園風景の中、稲刈りのコンバインが動く。

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 後方から一台のバスが私を追い抜いた。このバスがこの先堀廻のバス停で転回し、折り返し湯沢駅へ向かう最終バスになる。西馬音内川の上流に沿って歩くうちに堀廻に来た。ここは昭和48年に廃止された羽後交通雄勝線の終着駅で、梺駅跡は整備され当時の車両も保存されている。夕暮れ時の廃駅で一人昔のことを思い出しているうちに最終バスの時間がやって来た。17時20分発湯沢駅行き。バスは私一人を乗せて来た道を戻る。バスの車窓に映る見慣れた街並み。短い時間ではあったが、来てよかったと思う。

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 では、最終の新幹線で東京に帰ります。 

 湯沢駅から奥羽本線普通列車で新庄へ戻り、19時57分発東京行き最終「つばさ160号」に乗り込んだ。東京まで3時間半もあれば心の整理をつけることができる。闇夜の奥羽本線を往く。停車場毎に乗客が乗り込んできて、米沢駅を出る頃には自由席車は程よい乗車率となった。列車は間もなく板谷峠にかかる。深々とした森の中、新幹線の灯りだけが映る。峠道に夜が降りてくる。

週末パスで行く、諏訪神秋祭。

 大宮7時46分発の北陸新幹線「かがやき503号」はE7系12両編成。土曜朝の下り列車だが然程の混雑は見られず、半分強の乗車率で発車した。

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 よく晴れた土曜の朝。いざ、かがやきの向こう側へ!
 
 東北新幹線が右手に別れ、時速240kmに加速し北関東の大地を往く。かがやき号は次の長野まで停まらない。景色は慌ただしく変わり、熊谷駅を通過したと思ったらそこはもう高崎駅だった。そして上信を分かつ長大トンネルに入る。そういえば今日は碓氷峠から汽笛が消えて20年。今でも私は横川駅のホームに立つとロクサンの勇姿を思い浮かべることが出来る。しかし時の流れはそれ以上に速い。かがやき号は碓氷峠を一瞬で登り切り、朝の軽井沢駅ホームをゆっくりと通過する。信州の静謐な空気の向こうに浅間山が見えている。あれから20年。変わらないのはこの景色だけ。

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 新幹線から見る秋空の浅間山

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 長野からは在来線特急におのりかえ。

 右手に上信真田氏の古城が見えた。続くトンネルを抜けるともう善光寺平だ。ロクサンの時代を知る身としては、この速さにはまだ違和感が拭えない。ともあれ、8時43分長野着。乗り換え改札口を通り9時00分発の長野行き「ワイドビューしなの6号」に乗車した。本日の目的地は諏訪の岡谷だが、何故「あずさ」に乗らず北陸新幹線を経由したのか。今回の旅はJR東日本管内南半分が土日乗り放題となる「週末パス」を利用しており、新宿まで出る手間を考えれば遠回りの長野経由でも所要時間は然程変わらない。土曜朝の下り「あずさ」は混むので、たまには別ルートで諏訪に行ってみたかった。

 そしてもう一つ。新幹線を上野でなく大宮から乗ったのも理由があって、「かがやき」と言えども大宮までは時速110Kmのノロノロ運転を強いられるため、常磐線沿線の家から上野へ出ても日暮里から京浜東北線に乗り換えて大宮へ出ても、新幹線特急券が安くなる費用対効果を考えれば然程変わらない。バイブル(JR時刻表)を熟読し新たなルートを考えるのも遠征の愉しみ。塩尻で中央東線の上り普通列車に乗り換え、10時21分岡谷着。上りの3番線ホームには8時ちょうどの「スーパーあずさ5号」が入線してきた。

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 久方ぶりのララオカヤ

 岡谷駅前の旧イトーヨーカドー岡谷店ことララオカヤは現在2階テナント部分が丸々空白となっており、ここで度々同人誌即売会が開かれる。御射宮司祭→諏訪風神祭→諏訪神秋祭と主催は交代したが、足掛け8年間ここでは東方風神録のオンリーイベントが開催されていることになる。今日の開催は最後の諏訪風神祭以来2年ぶりだ。3つのイベントをこなしてきた私にとって、ここはもうホームのような安心感がある。

 ■諏訪神秋祭公式ページ
 ■諏訪神秋祭公式twitter
 
 ララオカヤ1階部分はそのまま店舗。そして階段を上がった2階部分が本日のイベントスペースとなる。そのためイベント当日は買い物客がそのまま迷い込んでくるシーンも度々見受けられる。信州の辺境の即売会といえ2年ぶりの聖地開催と、そして今年は東方風神録10周年。集まったのは122サークルで、これは主催氏の予想を大きく超えるものだったという。本日の開場は12時とゆっくり目。ちゃっちゃと設営を済ませてお着替えに赴くと、一般参加者待機列方面からコスプレ兄ちゃん姉ちゃんがどんどん入ってくる。告知は無かったが事実上の先行入場らしい。この方法をとってもサークル参加者は通行証を持っている訳で、無ければお着替えを済ませた後で一般待機列に戻せばいい。東方祭ではかなり以前より行われている手法で、他のイベントでももっと普及してもいいと思う。
  
 12時開場。地方のこじんまりとした会場に、100スペース強のサークルと、隅のコスプレ広場。正反対側には企業スペースがありグッズの販売と、何故かメロンブックスの同人誌委託承り所がある。ここに弊サークルの刊行物を持ち込んで感想を聞いてもよかったな。委託しないけど。そしてカタログに記載はなかったがサークルとも企業スペースとも覚束ない処に、地元の郷土史研究サークル「スワニミズム」のスペースがあり、刊行物が頒布されていた。サークル「けろぷろ!」も元は諏訪の土着文化を研究し発表するためのサークル。今でも十分興味はあるし、書籍を購入させて頂いた。
 
 ■諏訪信仰研究会~Facebookページ

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 ふもふも大集合

 本部隣の展示スペースにはぬいぐるみやドールが多数展示されている。この大きい神奈子様と白蓮様は御射宮司祭時代からの常連で、今日は連れてこなかったが仲間は我が家に5体居る。そしてその隣が記念品の販売スペース。東方風神録のイラストが描かれたお酒とお菓子の販売で、イベントが落ち着いた14時頃から販売するらしい。今回も地元の酒造「麗人」が協力している。毎回販売開始と同時に長蛇の列が出来るが、サークル参加者には事前の申請で取り置いてもらえる制度がある。こういう気配りが有り難い。本日のメーンは限定10本のみ販売の古酒。東方風神録10周年を記念した10年物で価格は一升2万円らしい。さすがにこちらは抽選販売で、私も参加したが倍率10倍を勝ち抜くことは出来ず落選した。一本2万円だけど。

 地方のオンリーイベントらしくのんびりとした空気が流れている。サークル側は首都圏や関西からのベテラン組が多く、一般参加者も話を聞くと県外から来たという層が多い。なので比較的年齢層は高く未成年者と思しき方はあまり見られなかった。蒲田や浜松町でやってるイベントを岡谷で開催したと言った感じか。もちろん聖地開催に意味があるんだろうけど。土曜日の開催とあって、この後現地で一泊して翌日観光に当てる方が多そうだ。ともあれ、御射宮司祭から続く諏訪風神録オンリーの魂はしっかりと受け継がれた模様。今回は主催が初めて地元ではなく県外の方となったが、大変だと思うが第二回以降も続けて欲しい。私も必ず参加しますので。

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 戦利品のお酒とイベントカタログ。サークル通行証の木札が良い。

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 祭りのあと。またここに来ることは出来るだろうか?

 16時に閉会。今回の売上もまあまあだった。在庫と衣装と小道具類を駅近くの岡谷郵便局からお家にシューして、アフターイベントは途中で失礼させて頂き岡谷駅から中央東線の下り列車に乗る。今夜は同人作家勢と上諏訪で呑み会だ。そして私はここで泊まらずに最終のスーパーあずさ36号で東京に帰る。せっかく諏訪まで来て温泉に入らないのは癪なので駅の足湯でホカァして、上諏訪での呑み会で美味しい料理とお酒。これがイベントの楽しみだ。呑み会は夜遅くまで続いたようだが私は列車の時刻があるので失礼させて頂き、上諏訪20時25分発の新宿行き最終「スーパーあずさ36号」に乗車した。呑み会ではかなり呑んでしまったので程よく、と言うかかなり酔っ払っている。自由席車に乗り込み会場で買ったお酒を開けると一気に酔いが回ってきた。席二人分占領で横になり、目が覚めたら終点の新宿駅。ここから頑張って都区内の果てのお家まで帰らなければならない。そして明日は5時半に起きて旅の後半戦を開始する。

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 週末パスの旅1日目終了。そして2日目へ続く。

フミンバインの遺志を継いで

 サークル「けろぷろ!」(ヘルシェイク平木代表・構成員1名)は9月12日、平成29年度秋季新刊『ハタテピピック・サードシーズン』を仮想敵国であるねこのしっぽ(川崎市下丸子)に入稿したと発表した。9月18日(祝)の「第百三十二季・文々。新聞友の会」より頒布される。

 【重要】サークル参加予定
 9月18日 京都「第百三十二季・文々。新聞友の会」風06
 9月30日 岡谷「諏訪神秋祭」b09a 
 10月15日 東京「平成二十九年・博麗神社秋季例大祭」さ26a 
 10月22日 大阪「第13回・東方紅楼夢」G33b
 11月5日 小倉「大九州合同祭14」(※SP未定)

 同作はサークル「ケロちゃんプロジェクト(2010~15)」並びに「けろぷろ!(2016~)」の7年間を通じて最低の出来ばえとなり、東方ジャンルの負の遺産と呼ぶに相応しい作品となっている。『ポプテピピック』(このマンガがすごい!78位)のオマージュかパクリかよく解らない4コマ作品が延々20Pも続く。お金と時間を無駄にしたい諸兄にお勧めの同人誌である。

ハタテピピックサードシーズン表紙
 


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 比較的年齢層が低い東方ジャンルでつげ義春作品とコラボ。一体何がしたいのかよく解らない。そして今回も京都文々。新聞社は破壊されていく。(※許可取っていません)

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 さわやかから幾らか貰っているのだろうか? 

 作者のヘルシェイク平木氏によると、これらクソ4コマは全て現代社会や政治に対する「抗議」だという。氏によれば同人誌とは元々界隈に無いことに落胆した結果、自分のために作って残りを仲間に「分ける」ものであり、メロンブックスやとらのあなの店頭に並ぶような「商品」とは完全に一線を画したいとしている。よって今回も書店への委託やダウンロード販売は一切行わない。イベントに足を運んでくれる仲間にだけ「分ける」価値があるとしている。詳しい理由はあとがきで熟知すべし。

 ハタテピピックサードシーズン裏表紙
 (内容があまりに酷いのでモザイク掛けます。当日のお楽しみということで)
 
 末筆になったが、B5版24Pのオーソドックスな同人誌会場限定400円で頒布される。自己申告制だが「サブカルクソ女割(100円引き)」もあるので、サブカルクソ女の方は是非申告してほしい。イベントでは前作『ハタテピピック・セカンドシーズン』や『ミレニアムの幻想少女』も置く予定なので、興味のある方はそちらの方も手にとって欲しい。
 
 では、イベント会場でお待ちしております。
プロフィール

hirakike

ハンコ絵師兼CJD見習い(非処女)の平木博士の心の闇の部分です。同人サークル「けろぷろ!」でクソマンガボーイやってます。代表作『ミレニアムの幻想少女』『ハタテピピック』(2016)。ときどき心が折れます。クソビッチです。※ご用と悩み相談はDMで(秘密厳守

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