帰ってきた!平木博士の異常な愛情

または私は如何にして心配するのを止めて二次元美少女を愛するようになったか。

2016年秋に活動再開。同人サークル「けろぷろ!(旧名ケロちゃんプロジェクト)」からの告知用ブログです。

サークル「けろぷろ!」同人イベント参加のお知らせ

2019年上半期参加予定イベントと、作品紹介のページです。
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ディスカバリー北陸~ハニベ岩窟院

 バスタ新宿を前夜の23時35分に出発した夜行バスはやや早めの5時10分頃、長野市内の善光寺大門に到着した。季節は立夏を過ぎたがここ信州の朝は肌寒い。とりあえず参道を通って善光寺へ向かう。早朝から地元の善男善女が散策中だ。彼らに混じって、善光寺を参拝した。

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 朝陽を浴びて。旅先での新しい一日が始まる。

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 牛に曳かれて。早朝の善光寺。

 長電の始発列車で長野に戻り、6時11分発の「はくたか591号」で糸魚川へ向かう。8号車の指定席は私一人の貸し切りだった。長野の市街を朝陽を浴びて走り、飯山、上越妙高と停車する。北陸新幹線はトンネルが多いが高架から海が見えるのが良い。僅か36分で糸魚川に到着。ここで新幹線を降りる。

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 北陸新幹線始発列車「はくたか591号」

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 五月晴れの日本海 

 ここ糸魚川で「北陸周遊乗車券」を購入する。あまり知名度が高くない乗車券だが、北陸新幹線の東京~上越妙高間を発駅とし、糸魚川~金沢間を着駅とする「えきねっとトクだ値」若しくは「モバイルSUICA特急券」を持つ乗客のみに発売される企画乗車券である。これで旧北陸本線の直江津~長浜間と支線が2500円で2日間乗り放題となる。窓口に
「えきねっとトクだ値」で来た証明となるPC画面のプリントアウトを見せるとすぐ発行してもらえた。

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 無事「北陸周遊乗車券」を購入。

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 それでは、北陸本線の旅の始まり。

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 海を見ながら。

 糸魚川7時11分発のえちご
トキメキ鉄道日本海ひすいライン、泊行きに乗車する。単行だが平日の早朝で、県境を越える列車なのでガラガラだ。糸魚川を出ると早速右手に日本海が広がる。此処は天下の険こと親不知だ。県境の駅は市振で、この先は富山県が運営する「あいの風とやま鉄道」となるが普通列車は全て泊まで乗り入れる。泊では同一ホーム上で7時48分発の金沢行きに乗り換えた。

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 泊で金沢行きに乗り換え。通勤通学客で混んでいた。

 初夏の北陸本線を征く。右手には日本海が広がり。左手には残雪の立山連峰が眺められる。日本の初夏の風物詩と言えばやはり田植え。水の入った水田が水鏡となり立山の山々を映す。駅毎に富山へ向かう通勤通学客が乗り込み2両編成の車内は混雑してきた。この混雑は富山を過ぎた後も続き、石動から先は石川県に入り路線名も「IRいしかわ鉄道」となる。9時39分、金沢着。駅で軽く朝食兼昼食を取り、10時28分発の北陸本線福井行きで更に西を目指す。左手に白山と建設中の北陸新幹線の高架橋が見える。その風景が水鏡に映り美しい。

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 14時25分、小松駅に到着。 

 小松市は建設機械の製造で知られる小松製作所の企業城下町。駅東口にはコマツの社屋が建ち、隣接する工場跡地は重機の展示や資料館を併設した「こまつの杜」として開放されている。一方の西口はバスターミナルとして整備され、ここから「ハニベ線」に乗って終点のハニベ前まで向かう。B級スポットの名称が路線名になっているとはびっくりだ。小松基地が近いせいか、時折大空をF15が轟音を立てて飛ぶ。

 11時25分発のバスに乗車。平日お昼前の車内は地元の老人たちの貸切状態で、買い物帰りか、病院帰りか、皆福祉パスを見せてバスを降りていく。平日の地方路線でよく見られる光景だ。そしてバスは途中から私一人の貸し切りとなる。30分ほどで終点のハニベ前に到着。バスを降りると早速巨大な仏頭が現れた。ここが鬼も遊ぶ仏陀の里、ハニベ巌窟院である。

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 悲願!ハニベ巌窟院にやって来ました。

 ■ハニベ巌窟院公式サイト
 
http://www.hanibe.com/

 ハニベ巌窟院は昭和26年、彫塑家の都賀田勇馬氏によって開洞された。氏は明治24年に金沢に生まれ、東京美術学校(現藝大)を卒業し彫塑家としてデビューする。そして敗戦後、戦没者の慰霊と世界平和を実現するが為、石切場であったここ小松市の郊外にハニベ巌窟院を造り上げ、生涯にわたって愚直に仏像を彫り続けた。昭和56年の勇馬氏の逝去後は息子の伯馬氏が代を継ぎ、今では親子二代で造り上げた仏像を展示する一大仏教スペクタクルゾーンと化している。

 バスを降りると早速高さ15mの仏頭が出迎えてくれた。入場口は無人で、併設する土産物屋に声をかけて入場料800円を支払うシステムらしい。頂いたパンフレットによるとこの仏頭は昭和58年に建立され、目下高さ33mの大仏建立を目指して絶賛鋭意製作中という。平成の世には間に合わなかったが、令和の時代中には是非とも仏像を建立して欲しい。
 
 そんなハニベ釈迦牟尼大仏の中に入ると無数の水子地蔵が出迎えてくれる。ここハニベ巌窟院は水子供養の寺院という側面もあるようだ。水子堂と合わせてここには1万体近い水子地蔵が祀られている。手作りのよだれかけをかけられている地蔵もあり、皆大切に祀られている。それだけ子を亡くした親が居るということだ。置かれていたノートには主に母親たちの声なき声が書き込まれていた。事情は色々あったとは言え、辛い思いをしてきたんだと思う。

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 水子堂

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 お地蔵様が祀られている

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 水子地蔵が並ぶ。

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 水子堂の外にも水子地蔵が。

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 おもちゃやぬいぐるみも。

 そして暫く進む。道中にも親子二代で造り上げた統一感の無い彫刻が立ち並んでいる。お父さんの勇馬先生は芸大卒の立派な彫塑家だったらしいが、息子さんの伯馬さんは割と自由奔放な方らしく、彫刻を見るとどちらの作品か大体解るようになってきた。一つ目の洞窟、阿弥陀堂に入るとまずは阿弥陀如来、そして鎌倉仏教の開宗者たちが並ぶ。法然、親鸞、一遍、日蓮、道元、そして栄西。受験勉強で学んだことを思い出す。そんな鎌倉仏教の開宗者たちが一度に見られるとはリーズナブルだ。その奥に願皿というコーナーが有り、陶器で出来た皿に願い事を書いて箱に投げ入れると願いが叶うというものらしい。2つで100円だったので、一つは健康と、もう一つは彼女が出来ますようにと書いて投げておいた。これだけスケールの大きい寺院で願掛けしたんだからすぐに出来るだろう。

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 こんなのが境内のあちこちに飾られている。

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 まずは一つ目の洞窟。

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 まずは阿弥陀如来像。

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 どうやらここは仏像と鎌倉仏教のコーナーらしい。

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 観音像

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 いよいよメーンの洞窟へ。仁王像が建つ。

 勇馬先生の作品を展示する隆明殿を経由して、2つ目の洞窟、どうやらここがハニベ巌窟院のメーンらしい。ていうか先程より参拝客が私一人しか居ない。園内貸切状態だ。腰を屈めながら洞窟の中に入る。冷んやりとした空気が全身を包む。そして突然始まる釈迦一代記。当然ながら洞窟の中は薄暗く、作品にのみスポットライトが当てられ得も云われぬ雰囲気を醸し出している。そして洞窟内には私一人。貸切状態で親子二代の芸術を鑑賞させて頂こう。

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 釈迦一代記を見て回ります。

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 と思いきや突然、誰の胸像なんだろう?左端は会社の部長に似ている。

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 いきなり阿修羅像

 
釈迦一代記の次はインド彫刻コーナー。ヒンドゥー教の愛の神、ミトゥナ像が展示されている。これ秘宝館で見たやつだ、と一瞬で解る。先程の釈迦一代記に続いて今度はヒンドゥー教の神様を祀っているが、ここは細かいことを考えたら負けのような気がする。

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 続いてインド彫刻コーナー

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 これらは、多分二代目の作品だと思う。

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 官能的でこう、美しい。

 
そしてメーンは地獄コーナー。ここでは現世でこんな悪いことをすると、地獄でこういう目に遭わされるぞという教育的指導を持って展示されている。例えば一例目の刑罰は、現世で人を轢き殺した人が受ける刑罰らしい。最近では老人が車を暴走させて市民を轢き殺す例が多発している。現世では刑罰を受けなくても、来生では地獄に堕ちてこのような目に遭わされるのだ。

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 牛頭馬頭という門番がお出迎え。
 
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 車にはトゲが付いていて、体がバラバラになっている。怖い!
 
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 食べ物を粗末にした刑。何もここまでしなくても。

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 人を誑かした刑。何故全裸?
 
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 我が子を殺した罪。生んでは喰い喰っては生む。無限の苦しみ。
 
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 乱用の罪。き、気をつけますっ(滝汗

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 不敬罪が最高の罪?という訳で、さらし首。

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 そして最後は閻魔大王。なかなか楽しい地獄めぐりでした。

 
どの宗教に於いても、この世で悪いことをした人間は死後地獄に落ち、裁きを受けなければならない。それだけ現世で善行を積むことが目標とされている。私も一人で地獄の刑罰を眺めつつ、一方では胸に手を置いて悪事を行っていないかを考えてみた。勿論、私も人の子なので全く悪いことをしていないとは言い難い。それでもそれを自覚した上で、少しでも善行を積むことが人としての生き方だろうと。ここ加賀の町外れの寺院で一人で考えてみた。

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 屋外にも展示あり!巨大な涅槃像です。

レトロスペクティブ山陰2018~2日目

 松江二日目は朝から雨が降っていた。日本海側気候に属する松江は一年を通して雨が多い。そんな松江に降る雨は御縁を運ぶ縁雫(えにしずく)と呼ばれている。宿でしっかり朝ごはんを食べて、朝8時にチェックアウト、路線バスに乗るために松江駅へ向かう。

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 雨の松江駅

 まずは昨日行けなかった八重垣神社へ向かった。『古事記』によるとイズモに降りたスサノオが怪物ヤマタノオロチを倒し、クシナダヒメを娶った地とされている。恋愛成就のパワースポットとして有名だ。まだ朝の9時前なのに観光バスが次々と乗り付け、団体客がわらわらと降りてくる。一人旅ではなるべく出喰わしたくない類だが何分彼らは忙しない。少し間を空ければ途端に居なくなる。団体客が去った境内には私と同じ一人旅の女の子が居た。熱心に何を願掛けしているのだろうか。

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 イズモのパワースポット、八重垣神社

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 クシナダヒメが水面を鏡代わりにしていたと云われる。

 傘を差し、境内の奥にある鏡の池に向かう。ここで一つ恋占いをやってみようと思う。池にそっと和紙を浮かべて、その中央にそっと十円玉を置く。和紙が早く沈めば縁談は早く、また近くで沈めば身近な人と、遠くなら遠方の人と縁があるらしい。後に小泉八雲の妻となるセツも少女時代に此処へ来たことがあるらしく、その時はかなり遠くで和紙が沈んだそうだ。

 雨粒が落ちる鏡の池にそっと和紙を置く。すると「友人との絆大切に 東と南が吉」の文字が浮き出てきた。中央に十円玉を置いて、後は和紙が沈んでいくのを見守るのみ。ところが和紙は叩きつける雨粒でたちまち沈んでしまった。

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 恋占いの結果

 これはとても身近な人と急速に縁あり?ということにしておこう。雨は心なしか弱まっていた。

 八重垣神社から八雲立つ風土記の丘まで「はにわロード」と呼ばれる遊歩道が伸びている。古代にはここに出雲国府が置かれていたらしい。この辺りには古墳群もあり、古くから歴史の要所として栄えていたのだろう。神話のスサノオとクシナダヒメ、そしてヤマタノオロチ。古事記に書かれたヒーロー、ヒロインに導かれるように私はこの道を歩いている。雨はすっかり上がった。朝の静謐な空気が気持ちいい。20分ほど歩いて風土記の丘に到着。資料館をさらっと見て、バスで再び松江市街に戻った。

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 埴輪たちに導かれて。

 松江市街に戻ると朝方の雨が嘘のように晴れてきた。バスの終点は一畑電車の松江しんじ湖温泉駅で、これより一日乗車券を購入し出雲大社前まで往復する。

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 青空が眩しい。松江しんじ湖温泉駅。

 「バタデン」こと一畑電車は、まず出雲市の一畑薬師への参詣客を輸送するために敷設された。その後路線を延長し、現在はここ松江しんじ湖温泉駅から電鉄出雲市駅へ至る北松江線と、出雲大社前から川跡へ至る大社線の二路線を運行している。

 バタデンに乗るのも随分と久方ぶりだ。始発の松江しんじ湖温泉駅は小奇麗な駅舎に生まれ変わり、車両も大手私鉄のお下がりではなく新車に入れ替わっている。11時36分発の出雲大社前行き普通列車は7000系単行。どこかで見たような車両と思いきや、JR四国の7000系車両のベースに作られたらしい。車内はロングシートとボックスシートが千鳥状に配置されており、宍道湖側のボックスシートに腰を下ろした。

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 平成28年度に導入されたばかりの新車です。

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 晴れた宍道湖を見ながら。
 
 それにしても、しばらく見ない間にバタデンも綺麗になった。インバウンドを意識してか、英語の車内放送さえある。大きな窓に青空と宍道湖の水平線。そして差し込んでくる日差しが暑い。単行の車内は地元の用務客と観光客が半々くらい。沿線の出雲大社や松江といった観光地をよく生かしている。バタデンも企業努力しているんだなと思った。

 宍道湖と別れ、一畑口で列車がスイッチバックする。以前はここより一畑薬師の前まで線路が伸びていたと言うが、現在はここから出雲市営の市民バスに乗り換える形となる。今回は一日乗車券を持っているが普通乗車券でもここ一畑口で途中下車が出来るらしい。せっかくだから一畑薬師へ足を運んでみよう。

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 一畑薬師へ向かうのは市民バス。一人旅の女の子が乗車した。

 市民バスは列車の到着に合わせて運行され、運賃は均一200円。私と一人旅の女の子を乗せて発車した。廃線跡を転用した県道23号線を走り、一畑やくしと書かれた灯籠が見えてくるとかつての一畑自動車道に入る。10分ほどで一畑薬師のバス停に到着。かつてここには一畑電鉄が経営する一畑パークと呼ばれる遊園地があったという。帰りのバスは1時間後。1時間あれば境内をさっと回ってこれるだろう。

 一畑薬師は臨済宗妙心寺派の仏教寺院で、健康、特に目にご利益があるとされている。水木しげるの養母のんのんばあも一畑薬師の熱心な信者で、幼少の頃連れられてきたことがあるらしい。参道を歩くと目玉おやじのブロンズ像が出迎えてくれた。椛が散り、晩秋から初冬へ移り変わる境内を一人で歩く。恋煩いも結構だがやはり健康も大切。本堂でしっかりと健康をお願いしてきた。

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 お寺はなんとなく心が落ち着く。

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 目玉おやじ「欲にころぶな」

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 一畑薬師本堂

 境内をさっと回って1時間。帰りのバスで一畑口へ戻る。帰りのバスも女の子と二人きりだったが、彼女は私と逆の松江しんじ湖温泉行きの電車に乗っていってしまった。私は電鉄出雲市行きの電車に乗る。出雲大社方面は途中の川跡で乗り換えとなるが、松江しんじ湖温泉、出雲大社前、電鉄出雲市行きの3本の列車が同時に並ぶので間違って乗ってしまってないかと不安になる。出雲大社前行きの行き先表示を指差確認し、隣ホームの列車に乗り換えた。

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 川跡に並ぶ三本の列車。左から松江しんじ湖温泉行き、出雲大社前行き、電鉄出雲市行き。

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 ハイカラな出雲大社前駅

 14時22分、出雲大社前着。言わずと知れた我が国最強のパワースポット出雲大社の最寄り駅である。現在公共交通機関で出雲大社へ向かう際はこの一畑電車かJR出雲市駅からの路線バスだが、平成2年3月までは出雲市駅から大社駅へ至るJR大社線が伸びていた。鉄道の廃止から30年弱が経つが、当時の駅舎は今でも綺麗に保存されている。まずはその駅舎を見に行く。

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 歩くこと約15分、旧大社駅が現れた。 

 旧大社駅は出雲大社前駅から、出雲大社へ向かう参道とは逆方向に15分ほど歩いた場所に存在している。なので出雲大社へのアクセスとしては当時から少々分が悪かった。参拝客が利用するのは専ら大鳥居まで直通する路線バスで、大社線は旧国鉄の特定地方交通線に指定され平成2年3月末をもって廃止された。

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鉄道の廃止から30年弱。この駅は時間が止まっている。
 
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 ホームも当時のまま

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 山陰本線を走ったデゴイチが保存されていた。

 旧大社駅は大正13年に二代目駅舎として開業した。かつては大阪からの長距離列車も乗り入れ、出雲大社への参詣客で賑わったのだろう。もう少し路線を伸ばしてせめて出雲大社の門前町に駅舎があれば、現在は電化され「やくも」や「サンライズ出雲」が乗り入れる光景もあったかも知れない。平日でも観光客で賑わう門前町とは違って、忘れられたかのように佇む旧駅舎には師走の冷たい風が吹いている。

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 廃止当時の時刻表が残っていた。

 現在、駅舎は国の重要文化財に指定され、駅舎内には観光案内所もある。だが前述の通り出雲大社の参道から離れており、ここまで足を運ぶ観光客は少ない。せめて鉄道があった頃に来たかった。それでも、こうして駅を遺してくれて、手入れしてくれる方が居るだけでも有り難い。出雲に来たときには、必ずこうしてこの駅舎に足を運ぶことにしている。今回も来てよかった。そして、またいつの日か来ようと思う。

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 イズモオオヤシロに来ました。

 来た道を戻り、再び出雲大社前の駅前を通り、門前町を抜けて出雲大社に参拝する。説明不要の我が国最強のパワースポットだ。平日にも関わらず参拝客が多い。二礼四拍一礼で本殿に参拝。その後反時計回りで境内の殿舎を回る。本殿に居られるオオクニヌシ様は西を向いておられると言われているので、西側の遥拝所からも
二礼四拍一礼。朝方の八重垣神社に続いて、しっかりとお祈りさせて頂いた。

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 まずは本殿を参拝 

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 反時計回りで境内を一周

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 大社のシンボル、巨大しめ縄。

 古代の出雲大社は今とは比べ物にもならない巨大な神殿であったと云われている。その高さは今の倍の48m、いや96mだったという説もある。八重垣神社に祀られるスサノオの子孫オオクニヌシが嘗てここに王国を築き、後に「国譲り」によって天津神に屈服する。その神話のストーリーの本題は一体何であったのだろうか。かつてここにイズモという名の王国を築いた人達。そして彼らがヤマトの中央政権と一体化するまで。出雲大社の先、国譲りの舞台となった稲佐の浜まで足を伸ばしてみた。

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 沈みつつある夕陽。この太陽と海しか知らない歴史。私は今日も旅をして新たな歴史を知る。そのためにこうして旅をしているんだと思う。

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 デハニ52と並んで。

 出雲大社前駅へ戻り、17時13分発の川跡行きに乗車する。松江しんじ湖温泉行きに乗り換えた頃にはもうすっかり日が沈んでいた。闇夜の宍道湖の湖畔を走り、松江しんじ湖温泉駅に戻る。今回の旅の心残りは温泉に入れなかったことだ。ここ松江を始め、山陰には良質の温泉がたくさんある。でも、また次に来ればいい。あえて一つ回りきれなかった場所を残すことで、またいつか此処に来ることが出来る。それが旅というものだ。最後は駅前の足湯で体を休め、バスで松江駅へと向かった。
 
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 足湯でほっこり。

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 では、サンライズ出雲で帰ります。

 往復サンライズ出雲で往く島根県の旅。今回もかなり駆け足での旅程となってしまったが、まあ良い気分転換になったと思う。入線してきた東京行きの通勤電車。もちろん明日はその足で出勤だ。行きと同じノビノビ座席で、買い込んだお酒とおつまみを開けて、しばし、一人の時間。 

レトロスペクティブ山陰2018~1日目

 ♪ちゃらちゃらちゃららら らら↑らららららら らーん

 サンライズエクスプレスのノビノビ座席に朝のチャイムが鳴り響く。午前6時08分、列車は定刻通りに和気駅を通過したとのこと。師走の夜明けは遅く、頭上には半分の月が高く昇り、明けの明星が輝く。

 東の空が徐々に灰色に染まってきた。6時27分、岡山着。ここで前の7両高松行き「サンライズ瀬戸」を切り離して先行させ、後ろの7両は「サンライズ出雲」となって出雲市へ向かう。短い停車時刻でホームに降りて、自販機で温かいコーヒーを買う。朝の駅ホームは切り離しを一目見ようとギャラリーで超満員。そしてここ岡山で降りる乗客も多い。このまま始発の新幹線に乗り換えれば広島や博多にも朝の丁度良い時間に着くことが出来る。我が国最後の定期夜行列車サンライズエクスプレスは、こうして今日も深夜の東海道ベルトを往来していた。

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 朝の岡山駅。サンライズ瀬戸号が先に発車していった。

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 引き続き「サンライズ出雲号」として、伯備線を通って出雲市まで行く。

 
サンライズ出雲は倉敷から伯備線に入り、高梁川に沿って走る。丁度通り掛かった車掌さんが「7月の豪雨はそこの道路まで水が来ていた」と話す。よく見ると川縁のあちこちに修復工事の跡が見て取れる。備中高梁、新見と停車し、山陽と山陰の分水嶺を短いトンネルで通過した。標高446m、伯備線で最も高い上石見駅で運転停車し「やくも6号」と交換する。

 9時30分、松江着。ここでサンライズ出雲を降りる。とりあえずバスで八重垣神社へ行こうとしたら、本日は松江城マラソンの影響で市内バスが運休している。予定変更。歩いてお城の方向へと足を進めた。宍道湖を見ながら松江大橋を渡り、市の中心部、官庁街を抜けて松江城内に入る。現存天守12城の一つ松江城を見て、お城の北側、かつて武家屋敷が建ち並んだ辺りを散策する。

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 サンライズ出雲を松江で降りた。

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 松江城、またの名を千鳥城と呼ばれる。

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 武家屋敷が続く通り。

 松江はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲ゆかりの地だ。ギリシャで生まれアイルランドに育ち、19歳でアメリカに渡って職を転々としながら文筆で生計を立て、39歳で日本の地を踏み島根県尋常中学校の英語教師となる。彼はここで旧松江藩の武士の娘であった小泉セツと出会い、後に結婚と同時に日本に帰化し小泉八雲と名乗り、三男一女に恵まれる。

 八雲はここ神々の国の首都で何を思っていたのだろう。近年リニューアルオープンした小泉八雲記念館に入り、八雲の生い立ちをパネルで見た。ギリシャで生まれ、アイルランドで過ごした少年時代は神学校に通った。そしてアメリカに渡った後も様々な風土を経験し、文化の多様性を学んでいた八雲が最後に行き着いた場所は神道だった。出雲は神話の里であり、八雲も来日前に英訳された『古事記』を読んでいる。また旧家の娘であったセツが話す小話も、後の八雲の創作に関する大きなヒントとなった。結局八雲はわずか一年で松江を離れたが、ここでの一年が後の八雲の生涯に大きな影響を与えたと思う。

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 松江にて

 世界中の文化と触れ合う中で目覚めた「オープン・マインド」(開かれた精神)。八雲ほどではないが、私も全国様々な土地を旅しつつ今日ここ松江に辿り着いた。初冬とは名ばかりの小春日和の松江を漫ろ歩きつつ、少しだが八雲と同じ時間を過ごせたように思う。
 
 松江駅へ戻り、特急「やくも9号」で宍道へ出る。ここから中国山地を越えて広島県側の備後落合へ至る木次線というローカル線が伸びている。かつては陰陽連絡の一部を担ったが現在はその地位を高速バスに明け渡し、峠を越える列車は今では一日僅か3往復しか存在しない。今からその一本に乗って終点の備後落合まで往復してこようと思う。

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 木次線の単行ディーゼルカー

 宍道13時58分発の備後落合行きはキハ120系単行。JR西日本管内の非電化ローカル線で活躍する車種で、ロングシートの車内には計8名の乗客が乗っている。見たところ全員地元の用務客で余所者は私一人のようだ。木次線の営業係数(100円の利益を得るために係る経費)は828であり、JR西日本管内では最悪である。

 左にカーブして山陰本線と別れ、間もなく25‰の上り勾配にかかる。ディーゼルカーの鼓動が高まってくる。外は師走だというのにまだまだ晩秋の景色。野焼きの煙が随所で上がり、ディーゼルカーも警笛を鳴らして徐行する。沿線最大の街である木次で乗客が入れ替わり総勢5名となった。ここから中国山地の鬱蒼とした森の中へと入ってゆき、車窓も晩秋から初冬へ変化する。かつては広島と松江を結ぶ急行「ちどり」が陰陽連絡のメーンルートとした路線だが、今は二条のレールがあてもなく山の中へと伸びているだけだ。その中を単行のディーゼルカーが往く。

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 晩秋の風景

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 出雲三成にて。反対列車と交換する。

 もちろんJR西日本もこの赤字ローカル線に手をこまねいている訳ではない。木次線の沿線は神話のふるさと。駅名標にも「ヤマタノオロチ」や「スサノオ」のイラストが描かれ、沿線の神話が紹介されている。この辺りは古代イズモの要所であったのであろう。本日は運転されていないが週末を中心に「奥出雲おろち号」という観光列車も運転されている。だが私はこうしてローカル列車に揺られている方が性に合う。松江駅で買ったかに寿司と地ビールを開けて、ちょっと遅めのお昼ご飯とした。初冬の山中を単行のディーゼルカーが淡々と往く。

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 出雲三成の駅名標はオオクニヌシだった。

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 山の中の線路

 亀嵩。松本清張の『砂の器』の聖地で、駅舎には蕎麦屋が併設されている。週末だけあって車で来た観光客たちでそこそこ混んでいた。事前に予約すれば列車まで「出前」もしてくれるという。その次の出雲横田でついに列車は私一人の貸切となった。反対列車と交換のため16分間停車する。この辺りは神話のクシナダヒメ縁の地で、駅舎にも立派な注連縄が掛けられていた。交換した宍道行きの列車には旅行者と見られる乗客の姿があった。

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 注連縄が見事な出雲横田駅舎

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 反対列車と交換。旅行者がそこそこ乗っていた。

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 遂に列車貸切。
 
 私一人の貸切となった車両は終点の備後落合を目指して中国山地の山奥へと入っていく。急勾配や急カーブが随所に現れ、列車も「必殺徐行」を行う。そしてこの先には木次線最大の難所、出雲坂根三段式スイッチバックが待ち受けている。列車はまず行き止まり式の出雲坂根駅構内に進入した後、バックして30‰の急勾配を上がり、再び進行方向を変えて山間の峠へアタックする。

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 出雲坂根駅には湧き水「延命水」が湧いている。

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 先頭車両から。左側が今さっき上がってきた線路、右がこれから登る線路。

 
木次線の全通は昭和12年の暮。当時はここまでして山陽と山陰を鉄路で繋ぎたかったのだろう。松江と広島を結ぶ急行列車が行き来した時代もあったが、今は余所者の私一人だけを乗せた単行のディーゼルカーが最後の峠を目指してアタックをかける。やがて山間に奥出雲おろちループと呼ばれる立派な道路が姿を見せる。平成4年に開業し、今では木次線の白眉とも言うべき車窓風景になっている。木次線もエンジンを全開にして、ヘアピンカーブを描きつつ難所の峠を越えていく。三井野原を過ぎるとようやく県境の峠が終わり、後は軽やかに下り坂を転げ落ちるだけ。17時01分、終点の備後落合駅に到着した。

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 二重ループの奥出雲おろちループ

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 山間のジャンクションで日が暮れた。

 木次線と芸備線が落ち合う処だから、備後落合。かつては鉄道の要所として栄えたが、今では駅前に数軒の民家があるだけのローカル駅。ここで私は元機関士の永橋則夫さんの出迎えを受けた。最盛期にはこの駅で100名以上の国鉄職員が働き、永橋さんもその一人だったらしい。現在はここで週末を中心にボランティアガイドをされている。

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 備後落合駅に到着。

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 無人駅の待合室には史料が多数展示されている。


 山間のジャンクションで日が暮れる。待合室には最盛期の備後落合駅を記録した写真が多数飾られ、永橋さんが一つ一つ丁寧に解説してくださる。当時の主な客層は若いスキーヤーだったようだ。現在の一日平均乗車人数は僅か13名。17時41分発、木次線宍道方面行き最終列車で引き返す。もちろん乗客は私一人だ。

 外は真っ暗闇。行きに通った路線を、駅を一つずつ丹念に停車していく。もちろん乗って来る人も降りる人も居ない。木次でようやく女の子が一人乗ってきたが、3つ目の幡屋で降りてしまった。再び、木次線ヒトリノ夜。終点まで3時間の孤独。20時39分、宍道着。今宵は松江に宿泊する。

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 木次線最終列車が宍道駅に到着。不思議な3時間の旅だった。

琥珀色のアリス~さんてつ祭り編

 八戸線のジョイフルトレイン「TOHOKU EMOTION」号が久慈駅に入線してきた。早速上級乗客たちを迎えるべく、JR東日本の回し者であるなまはげ達が久慈駅の構内に待機している。しかし乗客たちの目線はその向こう、巨大な黄色いネズミであろう。彼も或る意味JR東日本の回し者だが今日は違う。三陸鉄道側の久慈駅では車両基地を一般に開放する、年に一度のお祭だ。 
 
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 「情報量の多い写真」 

 本日ここでは平成三十年「さんてつ祭り」が開催されている。今日の主役は地元のちみっ子達。お兄さんたちから風船を貰って、黄色いネズミの前でポーズを取り、それを若い両親が手持ちのスマホで撮影する。一方大きなお友達の興味は構内に停車中の鉄道車両。車両を間近でじっくり見られるだけでなく、構内の見学や鉄道部品の展示、販売もある。

 もちろん私も後者だが、こうして他所様の職場にお邪魔するのは面白い。仕事場と言うか、現場という感じがする。職種は違えど働く現場はどこも似たようなものだろう。ジョージアの山田孝之ではないが、世界は誰かの仕事でできている感がある。

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 「おじゃましまーす」

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 「三陸鉄道の現場」

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 「三陸鉄道の車両」

 
昨夜の「アリスのバースデイ列車」はそのまま構内に留置され、今日は「三鉄カフェ」という休憩所になっている。職員さんがお茶やケーキを販売し、車内でゆっくり休んでいってくださいという趣旨らしい。ちみっ子から大きなお友達まで楽しめるさんてつ祭り、だが地方鉄道の車庫だけ会ってこじんまりとしており、首都圏の大手私鉄の電車区のように一日がかりで見るものではない。だがそこが逆に手作り感がある。まるで高校の文化祭のようだ。

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 よく解らないけど、車両の部品類らしい。

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 有志による鉄道模型の展示もあった。

 今日のメーンは久慈ありすのイラストを描かれた絵師のMATSUDA98さんと、ユニット「SUPER BELL'Z」の野月貴弘氏。このイベントには毎年参加されているらしい。14時頃からライブとトークショウの時間となり、こちらは最前列で見させて頂いた。これだけでも本日三陸まで来た甲斐があったというものだ。三鉄まつりの閉会は15時。今回一緒に行動させて貰っているメンバーたちはこの後も宿で後夜祭を行うそうだが、私は汽車の時間があるのでここで中座させて頂いた。久慈駅へ戻り、15時00発の八戸行き「リゾートうみねこ」号に乗る。

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 キハ48系3両編成で八戸線を往きます

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 海側の一人席は太平洋がのんびり眺められる

 3両編成の車内はガラガラで、私は3両目の自由席車の窓側、一人掛けの座席に座った。よく考えれば久慈は岩手県で八戸は青森県。全線を直通する需要はあまり無いのかもしれない。八戸までの約2時間、各駅に停車しながらほぼ太平洋の海岸線に沿って走る。晩秋の三陸は日没も早くトワイライトタイムがやってきた。自由席車は時折地元の用務客の乗り降りがあるものの、基本的にはガラガラである。

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 水平線が丸く見える。

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 蕪島神社を見ながら、八戸の市街に入る。

 
鮫から八戸の市街に入る。ここから終点の八戸までは「うみねこレール八戸市内線」の愛称がつけられ、地元の乗客で自由席車は混んできた。

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 「終点、八戸着」

 16時52分、日が暮れつつある八戸駅で「リゾートうみねこ」の旅は終了。この後は新幹線に乗り継ぎ東京へ帰るだけだ。以前より気になっていた「アリスのバースデイ列車」と「さんてつ祭り」。毎年毎年行こう行こうと思っていても他の用事が入ってしまう。でも今年は来ることが出来てよかったと思う。来年はどうなるか解らないけど、とにかく夢のような不思議な時間だった。
 

 

 

琥珀色のアリス~ありすのバースデイ列車編

 現在、女性の社会進出の結果、鉄道の現場でも女性運転士や女性係員を見ることが普通になった。だが一昔前は、鉄道はもっぱら男性の仕事であった。そんな中で昭和59年に開業した岩手県の第三セクター鉄道、三陸鉄道は、当初より鉄道の現業職に女性を積極的に起用していた。

 今世紀に入り、鉄道の現場にも徐々に女性が進出する過程で、全国の鉄道会社に勤務する女性をイメージした「鉄道むすめ」というコンテンツが生まれた。当初より積極的に女性を起用していた三陸鉄道にも、早速運転士の「久慈ありす」、駅係員の「釜石まな」というキャラクターが生まれた。私が彼女たちを知ったのも丁度その頃。東北旅行で三陸鉄道に乗車中、職員募集の車内広告で彼女たちと邂逅した。偶然にもその時の運転士も女性であった。

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  「釜石まな」と「久慈ありす」のポスター(我が家提供) 
  
 「久慈ありす」はその名の通り三陸鉄道起点駅の久慈と、沿線のリアス式海岸から取られたものだろう。昭和の終わりに旧国鉄の不採算路線を継承して開業したこの第三セクター鉄道は、当初から民間企業にも負けない経営努力をすることで初年度から黒字経営を成し遂げている。その理由は県内外に三陸鉄道の「ファン」を作り出すこと。鉄道むすめ「久慈ありす」の設定上の誕生日は11月3日。その日に合わせて久慈の車庫を公開する「さんてつ祭り」と、線内に貸切列車「ありすのバースデイ列車」を走らせるファンサービスを毎年行っている。今年は11月3日が土曜日で、翌日の4日は日曜日。3日のバースデイ列車に乗車し、翌日はさんてつ祭りに参加する。以前より気になっていたこのイベントに、今年ようやく足を運ぶことが出来た。

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 「久慈駅にやってきました」

 私は前夜に東京を発つ夜行バス「岩手きずな号」で久慈に入った。7年ぶり(確か震災の翌年だった)に訪れた久慈駅前は、数年前に放映されていた朝の連続ドラマ小説『あまちゃん』で埋め尽くされている。「ああ、そんなのやってたな」という感情だが、放映から5年経っても久慈の人々の宝なのだろう。駅前にはドラマの舞台を再現する「あまちゃんハウス」もある。集合時刻までまだ十分時間があるので、暫し朝の久慈の街を散策した。

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 三陸鉄道とJRの駅舎が並ぶ。

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 駅前シャッターに描かれた「あまちゃん」

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 作中にも出てきた駅前デパート 

 さて、今回集まった我々は熱心な三陸鉄道のファンである。本日のメーンである貸切列車「ありすのバースデイ列車」に乗る前に、我々でも一本貸切の臨時列車を仕立ててある。名付けて「ジークチッパイと愉快な仲間たち号」である。三陸鉄道では2時間4万円から貸切列車を走らせることが出来るため、この後我々を乗せた「ジークチッパイと愉快な仲間たち号(以下、臨時列車と呼ぶ)」は久慈~普代間を一往復することになっている。本日の主役、ジークチッパイ氏は新幹線と路線バス「スワロー号」を乗り継いで久慈駅にやって来た。主役が登場したところで、我々も久慈駅から臨時列車に乗車した。

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 地方の第三セクター鉄道は経営努力を怠ってはいけないのだ。

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 臨時列車、普代行き。
  
 久慈14時30分発の臨時列車普代行きは36系単行。三陸鉄道内を走行するオーソドックスな車両で、車内はボックスシートとロングシートが並んでいる。乗車したのは総勢十数名。各自思い思いに座席に腰を下ろし、持参したビールやお菓子をつまむ。勿論貸切列車なので常識の範囲内であれば何をしても構わない。晩秋の三陸海岸を見ながら車両はトコトコ走る。三陸鉄道北リアス線には何度も乗ったが、何かこんなに落ち着いて乗車するのは初めてかもしれない。臨時列車故に余裕を持ったスジが組まれており、途中駅でもやや長めに停車する。もちろん、車両を降りて外の景色を眺めたり、写真を撮ったりするのもここでは自由だ。

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 普段降りられないような小駅でも、ここでは自由に写真が撮れる。

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 海がきれいな堀内(ほりない)駅

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 普代でヘッドマークを交換。帰りは「はまかぜ」号に。 

 列車は小一時間で普代駅に到着した。かつての国鉄久慈線の終着駅で、丁度ここで折り返せば2時間以内に久慈駅に戻ってこれる。本日は運転士さんの好意で特製のヘッドマークまで付けてもらった。風光明媚な太平洋を眺めながらの往復2時間。これで4万円、いや、今回はジークちっぱい氏の顔を立てて半額の2万円で運行させて貰っているという。これを本日の乗車人数で割ると、なんと普通に普代までの往復切符を買う額と変わらない。なかなか面白い経験をさせてもらった。
 
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 2時間のめくるめく旅を終え、久慈駅に戻ってきました。

 本日のメーン「ありすのバースデイ列車」は久慈駅を17時30分に発車し、北アリス線の田野畑駅で折り返して20時15分に久慈駅に戻ってくる。車両は「さんりくしおさい号」に運用されるお座敷列車36R系。既に全国から予約が入り、2両編成の車内は満員御礼だという。発車30分前の17時に久慈駅に向かうと既に今夜の主役たちが集まっている。改札で名前を告げて旅行代金の6000円を支払うとお手製の乗車券とクリアファイルを頂けた。私の座席は1号車11番A席。ボックスシートの進行方向窓側席だ。とは言ってもこの時間ではもう外の景色は見られないのだが。

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 久慈駅で発車を待つ「ありすのバースデイ列車」

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 ファン手作りのデコレーションが施されている。

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 手作りの乗車券

 列車に乗り込む。既にテーブルにはお弁当が並べられ、この後お酒の提供もあるという。晩秋の三陸は日が落ちると急に冷え込むが車内の熱気は最高潮。発車と同時にお弁当を開け、乗り込んだ三陸鉄道の職員さんにワインを注いでもらう。途中の田野畑までは約1時間。外の景色は見えないが車内はジャンケン大会やトークショウで大賑わい。一人旅もいいけれど、たまにはこうして同好の士たちと列車に揺られるのも悪くない。

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 なんといってもお弁当とお酒!

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 盛り上がる車内。

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 ぬいぐるみ達も乗車

 
「ありすのバースデイ列車」は途中の田野畑駅で折り返す。ここで久慈方の先頭車に久慈ありすが描かれた特製ヘッドマークが用意された。三陸鉄道の職員さんと、先程ジャンケン大会で選ばれた乗客代表の二人で車両にヘッドマークを掲げる。ここで久慈行きの普通列車を先行させるが、「ありすのバースデイ列車」の熱気とは正反対で乗客が一人も乗っていない。元はと言えば旧国鉄が採算を理由に建設を断念した三陸縦貫鉄道。リアスの谷間の半農半漁の寒村を結ぶローカル線だ。イベント列車で県内外からのファンを集めるのも大切だが、いちばん大切なのは地元の乗客。ここ三陸も全国同様に少子高齢化と過疎化を抱えている。平成という時代が間もなく終わる今、三陸鉄道の見通しは決して明るい話ばかりではない。

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 ありすのヘッドマークがお目見え。

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 ありす!お誕生日おめでとう!

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 久慈駅に戻ってきました。
  
 約3時間のめくるめく一夜を終えて、「ありすのバースデイ列車」は久慈駅に戻ってきた。久慈20時16分発の八戸線最終列車とも接続していて、八戸から盛岡や函館辺りなら今日中に戻ることが出来る。だが我らの本命は明日のさんてつ祭り。今夜は久慈市内の宿に入り、各自バースデイ列車の二次会とした。

シュマリ・ナイ

 朱鞠内。アイヌ語で「シュマリ(キツネの居る)ナイ(沢)」。子供の頃、夜中に自室でバイブル(JR時刻表)を捲りつつ、はるか彼方のこの地名に思いを馳せていた。北海道の奥地にひっそりと佇む集落を想像していた。日本最低気温記録の-41.2℃を記録した街で、朱鞠内湖が横たわる。当時朱鞠内には深川から名寄に至るJR深名線が通っていた。

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 ありし日の深名線

 あれから四半世紀の時が流れ、ようやく憧れの朱鞠内を訪れる機会ができた。だが鉄道は23年前の平成7年に廃止され、現在はジェイ・アール北海道バスが代替バスを走らせている。鉄道時代は全区間を通しで運行する列車もあったらしいが、代替バスは途中の幌加内で系統が分離され、朱鞠内へ向かうには一旦乗り換えが必要になっている。札幌から特急列車で1時間強、ここ深川駅がかつての深名線の始発駅であった。

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 JR深川駅にやって来ました。

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 これより、バスに乗って旧深名線を辿ります

 10時25分発の幌加内行きバスは発車時刻ギリギリに現れた。バスは中距離路線でよく見る4列シート車だったが、バスに乗り込んだのは私を含めてたった3人。深名線の沿線はこれといった街もなく、この路線は鉄道時代から大赤字であったという。深名線代替バスも経営状態は厳しく、車両こそジェイ・アール北海道バスのものだが、乗務員や運行管理は道北バスに委託されている。運転手は車内を軽く見渡した後、手持ちの乗員表に深川3名と記入した。こうして「これだけしか乗ってないんですよ」という統計を取ることで、いずれはこの路線から撤退する腹積もりなのであろう。

 定刻に発車したバスは深川の市街で北に進路を変え、JR函館本線の線路をオーバークロスする。旧深名線は深川を出ると東に大きく回り込むかたちで多度志の街へ向かっていて、バスはこの区間を国道でショートカットする。今乗っているバスはこの区間の停留所には止まらない「快速」だ。旧深名線と合流する多度志のバス停で乗客が1名降りた。ここは鉄道時代の駅からは少し離れた場所になるらしい。ここから廃線跡が右手に見えるようだが、鉄道の廃止から20年以上も経ってしまえば土に還ってしまったであろう。

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 一番前の特等席から。晩夏の北海道を往く。

 幌加内行きのバスは私と、深川から乗っている爺さんの二人を乗せて国道275号線を北上する。対向車両はほとんど無く、時々大型バイクに乗った一団とすれ違う。ここ北海道に限らないのだが、ローカルバスに乗っているとやたらと廃校舎に目に付く。都会でも地方でも、少子化と高齢化で小学校の数は年々減り続けている。廃線跡は土に還ったが旧駅舎は保存し管理している人が居るらしく、幌成では鉄道時代の駅舎と思しき建物が車窓を過ぎた。鷹泊で爺さんが降りてバスは私一人の貸切となる。小さな峠をトンネルで越えて幌加内町に入った。

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 ソバ畑。
 
 車窓には一面のソバ畑が広がる。昭和40年代に米の減反政策が始まり、代替作物としてここ幌加内町ではソバの作付が始まった。冷涼な気候と昼夜の寒暖差がソバの栽培に適しているという。町内にも美味しい蕎麦屋さんが何軒かあるらしい。このバスは11時33分に幌加内に到着し、12時58分発の名寄行きに乗り換えとなる。1時間強もあれば街歩きと美味しい蕎麦にありつけるだろう。バスは幌加内の市街地に入り、定刻通りにバスターミナルに到着した。

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 深川行きのバスとすれ違った。
 
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 終点、幌加内バスターミナルに到着。

 幌加内町は南北に約65km、そして人口は約1500人。旧深名線はこの北海道で一番人口密度が低い町を南北に縦断していた。バスターミナルには深名線資料館と蕎麦屋が併設されているが、蕎麦屋の方は臨時休業でここでは資料館だけを見ていくことになった。館内は無人で、自由に見ていって下さいという方針だ。
 
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 立派な幌加内バスターミナル 
 
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 資料館におじゃましま~す

 
深名線の開業は1924(大正13)年10月の深川~多度志間を皮切りに、1941(昭和16)年10月に全線が開業している。沿線の雨竜ダム建設に伴う資材輸送や木材輸送が主目的で、幌加内町もかつては林業で栄え、昭和35年の総人口は約1万2千人であったという。だが後に社会構造の変革により、町の人口も鉄道の利用者数も減り始める。深名線も他の道内の鉄道と同じく廃止が取り沙汰されたが、皮肉にも沿線道路が未発達で路線バスへの転換が出来ず、結果として深名線は廃止を逃れることが出来た。だが深名線は既に鉄道としての役目を終えており、僅かな通学客と用務客、そして時々都会から訪れる旅行者たちを相手に、あてもなく鉄路を往き来している状態であった。

 その沿線道路も平成の世になれば整備が完了し、鉄道としての深名線はこれで引導を渡されたことになった。1995(平成7)年9月3日、JR深名線はこの日をもって役目を終え、翌日からJR北海道バスの路線バスとなった。

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 街にはまだ深名線の面影があった。

 資料館で深名線の歴史を学び、街へ出る。幌加内はこじんまりとした街で乾いた風が心地よく、もうすっかり秋の景色だ。だがここは北海道有数の豪雪地帯。役場の前を通るとちょうど12時のチャイムが鳴る。街のあちこちに今年2月25日、積雪324cmを記録したとの表示がある。そういえば今年の冬は寒かった。そして夏は暑かった。更に現在日本の南海上を超大型の台風21号が北上しつつある。予報では明日関西直撃、北海道には明後日にやってくるようだが、幌加内の街は嵐の前の静けさである。

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 鉄道時代の駅跡地にモニュメントが建っていた。

 鉄道時代の幌加内駅は役場の裏手、街外れにあったという。駅前通りと思しき道路を突き進んだ奥にあった。幌加内駅跡と標されたモニュメントに、線路と駅名標が保存されている。かつてここに駅舎が建ち、材木を積んだ貨物列車や、深川や札幌へ向かう大勢の乗客で賑わったのだろう。願わくば鉄道時代にここへ来たかった。かつてホームであったであろう場所に立って、そっと目を瞑る。秋の風が頬を撫でる。

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 お昼ご飯は幌加内そば

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 続いて名寄行きのバスに。朱鞠内を目指します。

 幌加内の街で名物の蕎麦を頂いた後、幌加内12時58分発の名寄行きバスに乗る。乗客は私を含めて2名。うち1名は旅行者で途中のルオントで降りるという。要するに、地元の乗客は0ということだ。

 再びソバ畑の中を往く。右手に朱鞠内湖より注ぐ雨竜川が現れ、深名線の線路はこの川の向こうを走っていたらしい。目を凝らすとそれらしき遺構が確認できる。アイヌ語のウェン(悪い)ベツ(川)から来た雨煙別を過ぎ、やがて前方から緑色の鉄橋が現れた。第三雨竜川橋梁、またの名をポンコタン鉄橋と言い、町民有志によって今も保存されている。先程の深名線資料館でも学んだが、深名線が添牛内まで延伸した昭和6年に、当時最先端の土木技術で建設された鉄橋だ。北海道の鉄路は先人たちの苦行と努力、そして尊い犠牲によって敷設されたものばかりだが、北海道150年の現在、その鉄路はJR北海道の足枷となり先の未来は明るくない。

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 鉄道時代の鉄橋が現れた。

 
道の駅に併設された「せいわ温泉ルオント」で旅行者が下車した。バスは再び私一人の貸切となる。バスは一旦雨竜川と別れ、再びソバ畑の中を往く。次の添牛内では左手に鉄道時代の旧駅舎がちらりと見えた。
 
 北海道の果てに伸びる国道275号線。その果てにその集落はあった。13時43分、朱鞠内着。貸切状態のバスをここで降りる。乗客0となったバスはそのまま名寄方へ引き上げていった。

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 朱鞠内にやって来た。

 
かつて駅舎だったであろう跡地に瀟洒な待合室があり、レールと駅名標のモニュメントが建っている。かつてのヤード跡はそのまま公園になっていた。鉄道時代は有人駅で、最盛期には木材やダム建設資材の運搬で賑わったのだろう。だが今は人っ子一人居ない。ただっ広い駅跡地には秋の風が吹いている。

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 札幌まで184km、意外と近かった。

 
北海道雨竜郡幌加内町
朱鞠内。49世帯人口92人の小さな街。駅前には廃ガソリンスタンドと、北海道新聞の看板を掲げた萬屋。国道沿いに民家が数軒、診療所、郵便局。郵便局の前で初めて町民に会う。「こんにちわ」と挨拶をしてくれたので、返す。そして駐在所、しばらく歩いた先に消防署、坂を上がった所に小学校。中学校や高校は先程の幌加内まで通わなければならない。朱鞠内は一足早い秋風が吹く静かな街だった。子供の頃から一度は訪れたかった北海道の静かな街。ようやく来れた。そして来てよかった。

 続いて朱鞠内湖に向かった。幌加内町を南北に流れる雨竜川の上流をダムで堰き止めて作られた人口湖だが、まるで太古の昔からそこに存在していたかのような雰囲気がある。北海道の奥地にひっそりと佇んでいる。ダムは北海道の電源開発の一環として戦時中の昭和18年に完成し、建設資材の運搬のために深名線が建設された。鉄道も、そしてダムの建設も、当時の最先端の技術が投入され、そしてその影に尊い犠牲があったことは推測できる。その労働環境は過酷なものであっただろう。湖畔に立つ慰霊碑に、そっと手を合わせる。
 
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 朱鞠内湖にやって来た。

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 エゾマツの森の中、湖は静かに佇んでいる。

 
湖畔のキャンプ場には夏も終わったというのに幾つかテントが立ち、人の気配があった。昭和53年2月17日にここで記録した日本最低気温-41.2℃を表すモニュメントも建っている。この湖にはイトウやマスが棲み、シーズンには釣り人の姿も見られるらしい。湖畔の芝生に寝転んで、そのまま大空を眺める。北海道の空はどこまでも広く青い。そして目の前には湖。暫し、空を眺めていた。

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 乗客0の名寄行き最終バスが現れた。

 朱鞠内の集落に戻り、16時33分発の名寄行き最終バスに乗車した。バスはまたしても私の貸切だった。最前列の特等席に座り、話好きの運転手と雑談しながらバスは往く。ここ朱鞠内から名寄はほぼ無人地帯で人家が全く見られない。運転手が言うにはこの区間は朱鞠内から名寄に通勤する会社員。母子里から名寄に通学する高校生二名、そして朱鞠内にパチンコ好きの爺さんが居たけど最近は見なくなったという。そして私のような旅行者が時々乗りに来るという。峠のトンネルを抜けると前方に名寄の街の明かりが見えた。ここまで来ると深名線の旅の終わりも近い。

 天塩弥生バス停で運転手がバスを停めた。道路と並行する廃線跡に木造の駅舎が建っている。これは鉄道時代の駅では無く、鉄道OBがこの地に駅舎風の建物を建てて宿を経営しているという。「待っててあげるから写真撮ってきなよ」とのことで、カメラを下げて駅舎を見に行った。運転手が言うにはこのバス路線を利用して駅舎を訪れる旅人も多いらしい。
 
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 旅人宿、天塩弥生駅

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 終点、名寄駅前に到着。

 天塩川を渡って名寄の市街に入る。商店街や百貨店もあり、まるで大都会に来たようだ。17時35分、バスは夕暮れ時の名寄駅前に到着。最後までバスは私一人の貸切だった。運転手に「またおいで」と声をかけられバスを降りる。基本的には鉄道好きだけど、たまにはこうして路線バスの旅もいいものだ。次に来るときは雪深い冬に、そして天塩弥生の旅人宿に泊まりたい。辺り一面の銀世界の中を私一人を乗せたバスが往く。そしてその時はまた、この運転手さんのバスに乗れればいいなと思った。

一乗谷にて

 8月の或る日。スマホでえきねっとを触っていたらムーンライトながら号の指定席券が生えてきたので、8月6日の月曜日の深夜、東京駅10番線の売店でお酒とおつまみを買い込んで、いつもの夜行列車に乗った。

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 東京23時10分発、ムーンライトながら号大垣行き

 翌朝5時50分、ムーンライトながら号は定刻通りに終点の大垣駅に到着した。5時53分発の下り列車へと足早に乗り継ぎ、米原から6時50分発の北陸本線敦賀行きに乗った。湖北の水田地帯を走り、左手に余呉湖を望み琵琶湖の北端で湖西線と合流する。この辺りは関西の最果て感が漂う。続く近江塩津駅の先、全長5173mの沓掛トンネルで滋賀県と福井県の県境を越え、新疋田の先で左手に鳩原ループ線が別れる。このループ線は上り線で乗車するのは帰路になる。先程別れた上り線が頭上をクロスする地点、西村京太郎の『雷鳥九号殺人事件』のトリックで使われた有名な場所だ。

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 米原で乗り継いだ列車は混んでいた

 7時36分、敦賀着。続いて7時41分発の福井行きに乗車した。敦賀を出ると間もなく全長13870m、北陸トンネルに突入する。現在でも在来線のトンネルとしては日本最長を誇る。トンネルを抜けると越前国で、福井市へ向かう通勤客が乗ってきた。暦の上では今日は立秋、平成最後の秋がやって来た。だが車窓に広がる越前平野は夏景色そのもので、たわわに実った稲穂が車窓を過ぎていく。今日も朝から暑くなりそうだ。夜行列車での寝不足から処々座席で船を漕ぎつつ、8時37分福井着。

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 恐竜のモニュメントが出迎える福井駅
 
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 越美北線に乗ります。

 高架化された福井駅では只今自動改札設置工事の真っ最中。そんな福井駅の外れの0番線から、1日9本の越美北線普通列車が発する。その名の通り越前と美濃を結ぶ鉄道として着工したが両線を結ぶ夢破れ、現在はこの越美北線と第3セクター化された越美南線に分断されている。9時08分発の九頭竜湖行きはキハ120系2両編成。後ろの1両は途中の越前大野止まりで、一乗谷で降りるつもりなので2両目に乗った。車両にはドアを手で開けて闖入する。例のきっぷで旅行中と思しき男性陣や地元民数名を乗せて発車した。

 「4年後には隣に北陸新幹線が走るんだな」などと想像しながら福井の市街を走り、高架を降りて北陸本線と別れ、最初の停車駅越前花堂に停車する。片面ホームの小駅だが北陸本線の線路にも同じ駅があり、連絡通路で結ばれている。ここが時刻表上での越美北線の起点駅だ。北陸自動車道を潜って福井市の郊外を抜け、水田と足羽川が見え始めると一乗谷に着く。このまま越美北線を終点まで乗り通したい欲求も出てきたが、席を立って1両目の先頭から列車を降りた。

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 一乗谷にて。乗降客は私一人だった。

 一乗谷は福井市郊外、足羽川に注ぐ一乗谷川に沿って連なる谷底平野であるが、かつては戦国大名朝倉氏の城下町として栄え、最盛期には1万人の人口を有していた。当時京都の人口が10万、堺や博多が3万~3万5千というのだから、我が国屈指の大都市がここにはあった。だが一乗谷は1575年に織田信長の侵攻を受け一夜にして灰燼と化し、当主の義景は大野に逃れるも身内の裏切りにあって自害する。ここに戦国大名朝倉氏は滅亡し、一乗谷はその後400年近くも田畑に埋もれ忘れられた都と化していた。

 一乗谷駅から徒歩数分の所に福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があり、まずはここで一乗谷の歴史を予習する。朝倉氏は元は但馬を発祥とした豪族で、応仁の乱の後で越前国の守護職として取り立てられたようだ。1471年に一乗谷城を建築しここを本拠地として代々栄えるが、11代義景の代になると信長と対立するようになり、遂に1573年信長勢の大軍により一乗谷城は陥落。ここに戦国大名としての朝倉氏も滅亡した。とボランティアの方から丁寧な説明を頂きつつ、館内の史料を見て回る。

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 一乗谷の模型。最盛期はこの平野に1万人の民が暮らした。

 
博物館の前から一乗谷朝倉氏遺跡まではバスが出ているが、特に歩けない距離でもないので今回は徒歩で向かうことにした。10分も歩けばかつての一乗谷の入り口、下城戸跡が見えてきた。現在は重厚な石垣が残るだけだがここに巨大な門があったことくらいは想像がつく。険しい顔の門番が立って見張っていたのかもしれない。そしてここより先が忘れられた都、日本のボンベイこと朝倉氏一乗谷城下町だ。

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 おじゃましま~す

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 この先、一乗谷。
 
 
暦の上では秋と言ってもこの夏の暑さは異常で、今日も太陽は天空高く昇り日差しが暑い。夜行列車は冷房が効きすぎるので今回は長袖シャツを着ていて、もういっそ脱いでしまおうかと思うくらい暑い。暫くは一乗谷川に沿って普通の農村風景が広がる。特別史跡と言っても一乗谷落城後は都の上に田畑が開墾され人が住んでいるので、あくまで発掘のために田畑を手放した箇所だけが遺跡として認識されている。やがて一乗谷平面復原地区が見えてきた。ここはかつての町並みの礎石だけが見て取れる。ちょうど職員さんが草刈りをしておられたので話を聞いてみた。此処はかつての寺院と町屋群らしい。とは言え土の下から出てきたのは礎石だけで、ここでかつての城下町の喧騒を想像するのは難しい。

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  かつて此処に都市があったと言うが。

 
続いて一乗谷復原街並を見る。此処は有料で、先程の資料館と共通の230円の拝観券を買ってある。田畑の下から出土した礎石の上に、戦国時代の町並みを復元した一角である。黄土色の土壁が続く情景はまるで3Dロールプレイングゲームの主人公になったようだ。当時はここを沢山の武士や町人が歩いていたのだろう。

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 さながら、3DRPGのよう。 

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 商店もあり、多数の民で賑わったのだろう。 

 武家屋敷や町人の家、商店。そしてここでは井戸や厠までもが忠実に復元されている。この厠、竪穴の土壌を分析したところ寄生虫の卵の化石が発見されたことから解明されたらしい。もちろんトイレは汲み取り式で、溜まった物は養分として農家に販売されていたのだろう。
 
 復原街並から一乗谷川の向こうが領主の館群である。このうち一番大きなものが朝倉氏代々の当主が住んだ朝倉館跡である。ここは門構が復元され、三方は土塁と濠で囲まれている。ここも土塁が残るのみだが先程の城下町とは規模が違う。明らかな屋敷である。

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 領主の館。

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 かつてここに立派な屋敷が建っていたというが。

 朝倉氏最後の当主義景は戦国大名と言うよりは文化人寄りで、戦はあまり上手くなかったようだ。キャラ的には今川氏最後の当主氏真に近い。氏真は家康に攻められた掛川城で主君以下全員の命を保証してもらって降伏したが、義景は残念ながら身内の裏切りにもあって自害してしまう。戦う相手が悪かったとはいえ、越前の覇者朝倉氏の悲惨な最期だったと思う。だが当の信長の権威もその後の本能寺であっけなく滅んでしまう。元亀天正の頃の話である。

 一乗谷落城から400年以上が経過し、今では静かな福井の山間となった一乗谷だが、朝倉氏の屋敷だった跡地に立派な庭園だけが残っている。屋敷が焼かれても石が焼けることはないし、誰かが意図的に壊さない限り400年そこらでは自然に還るものでもない。この諏訪館跡庭園は義景の妻の館にあった庭園で、一乗谷で最も規模が大きい庭園である。

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 一乗谷にて。

 平成最後の夏。朝からずっと炎天下を歩き回っているのでさすがに疲れてきた。日陰のベンチに一人座って、この荘厳な庭園と対峙する。今は苔むした庭園も、越前の覇者朝倉氏の栄華を確かに今に伝えている。かつてここに朝倉氏の立派な屋敷が建ち、領主や客人がこの位置から立派な庭園を眺めていたのだろう。そして当時を伝えるものはこの棄てられた庭園だけ。
 
 一乗谷駅に戻り、13時07分発の九頭竜湖行きに乗車した。2両編成の車内は混んでいた。それもそのはず。実は私が今朝一乗谷駅に到着した9時26分から、3時間半後のこの時間まで列車が一本も無いのだ。福井駅と越前大野駅の間は並走する道路を京福バスが1時間間隔で結ぶ一方、鉄道の方は一日9往復とやる気がない。なお越美北線の開通は鉄道としては比較的最近のことで、越前大野までが昭和35年12月、終点の九頭竜湖までが昭和47年11月である。

 足羽川に掛かる真新しい鉄橋を渡る。平成16年の福井豪雨ではこの川に掛かる5本の鉄橋が流され、全線復旧まで3年を要した。美山の先で足羽川が別れ山間に入る。視界が急に開けると大野盆地で、遠くに山城が見える。街の入口である北大野で降りる乗客も多い。13時45分、越前大野着。ここで列車を降りる。

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 越前大野駅にやって来ました。

 越前大野駅では観光案内所の職員さんから
「越前おおの食べ歩き見て歩きマップ」を手渡された。越美北線で訪れた観光客に配布され、市内の循環バスと観光施設の入場料が無料、そして市内の飲食店で利用できるクーポンが付いて、1000円相当のものらしい。それを無料で手渡してくれるとはたいそうなおもてなしだ。

 越前大野は天正3(1537)年に織田信長の配下だった金森長近がこの地に城を築き、以後「北陸の小京都」と呼ばれる碁盤目状の街が形成された。市内のあちこちに湧き水があり、水の都とも呼ばれている。駅前から循環バスに乗って街の中心部へ向かう。まずはお城に登りたい。標高249mの亀山の上に天守閣が建つ。天守は昭和43年に再建されたものだが内部には歴代藩主の物が多数展示されていた。

 城下町を訪れた際は必ず天守閣に登るようにしている。お城から街を見渡す。まるで殿様になったような気分だ。

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 天空の城、越前大野城

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 大野盆地を一望。

 
越前大野は戦災や大火を逃れた貴重な城下町で、武家屋敷や寺内町がそのまま残っている。お城を含め越前大野駅で頂いたマップを掲示すればどれも無料で拝観できる。そして市内のお菓子屋さんや酒屋ではお土産を頂くことも出来る。なんとも素晴らしいおもてなしだ。こうして北陸の小京都をぷらぷら歩いていると古風な銭湯を発見。今夜も大垣駅から上りのムーンライトながら号で帰京するので、朝から一乗谷、大野と歩きっぱなしだったので此処で汗を流すのも良いだろう。

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 銭湯発見!迷わず入ります。

 
男湯は私の貸切状態で、番台のお父さんが色々と話してくれた。ここ亀山湯は明治35年創業の由緒ある銭湯で、わざわざ遠くから見学に訪れる人も多いそうだ。現在の建物は昭和初期のものだが。それでもこう、これこそ銭湯という感じがある。

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 これぞ銭湯!ご主人が煙草を燻らせながら店番中。

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 男湯は私一人の貸し切りだった。

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 では、これより東京へ帰ります。

 
銭湯でさっぱりした後越前大野駅へ。17時09分発の福井行きで撤収する。帰りの列車は1両だがガラガラだった。大野盆地を暫し走った後山間に入る。そして再び足羽川と邂逅し、一乗谷から先は福井市の郊外を走る。この先の予定は福井から再び北陸本線で米原に出て、大垣からムーンライトながら号で帰京するだけだ。0泊3日の強行軍だが、ムーンライトながら号で往復すると思いの外色々な土地を巡ることができる。今回もなかなか有意義な旅であった。そしてこの後は列車を乗り継ぎ東京へ帰るのみ。

ふたたび、かがり火の灯る頃に。

 最後のかがり美少女イラストコンテストから7年も経ってるし、もう自分のような老いぼれに出る幕はないと静観するつもりだった。でも青春時代を過ごした街と、お世話になった人達にもう一度だけ逢いたくて、後悔はしたくなかったのでかつての面子と一緒に羽後町まで行ってきた。結論から言うと、みんな元気でやっていますよと。ながやのご両親はちゃんと私のことを覚えてくれていたし、主催の山内さんとも何年かぶりに再会して話が出来た。会えなかった人がほとんどだけど、ほんの一瞬だけ若かりし頃の自分に戻れたような気がする。

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 「ただいま。」

 かがり美少女イラストコンテストとは平成19年から23年までの4年間、秋田県羽後町の夏祭り「かがり火天国」に於いて、街の名勝である西馬音内盆踊りに因んだ美少女イラストを投稿し順位を競ったというものだ。私はそこに毎回投稿し、第1回では入選し賞状と記念品を頂いた。その時の賞状は今でも部屋に飾っている。主催者はこの街出身の大学生だった山内さん。そして私はこの時秋田市からやって来た佐々木さん(と、呼ばせていただきます)と出会い、この3人の青年たちは持ち前の個性と若さと行動力で次々と周囲を巻き込み、この秋田の田舎町から全国的なムーブメントを巻き起こした。そして世の中をちょっとだけ、いや、長い目で見れば大きく変えた後、この街は使命を終えて元の静かな街に戻った。もう7年も昔の話である。

 私は秋田に4年間留学していたんだと思っている。都会育ちの自分にとって自然溢れる羽後町はキャンパスで、町の方々は皆先生で、そして自分たちは栄えある一期生だ。中でも俺たち3人は優秀な成績を修めクローズアップ現代に出た。卒業後3人は別々の道を歩み、自分は東京に戻って平凡なオタクとして生きる道を選んだ。でもここで学んだ4年間があったからこそ、次のステージで自分を大いに表現し活躍出来たんだと思う。そしてそれは人生の大きな糧となった。 

 私が美少女イラストやマンガを描くことは一貫して「世の中への抵抗」である。今も昔も、この納得がいかない世の中に対する私なりの抗議だ。第1回かがり美天国が行われた平成19年、当時オタクや美少女イラストに対する世間の、主にマスコミの風当たりは非常に強かった。何の取り柄もない自分が唯一人並み以上に出来ることが絵を描くこと。なのに世間は「萌え~」だの「アキバ系」だの言って俺たちを馬鹿にする。そんな世の中が許せなかった。その思いを私は当時ネットの主力であった個人ブログに毎日のように書き込み、一部の人々の共感は得ることが出来たが、世の中を変えるにはほど遠いことだった。

 10年以上も前。ふとしたきっかけで東京から羽後町までやって来た私と、山内さん、佐々木さん、そして周りの青年たち、みんな同じようなことを考えていたような気がする。美少女イラストは可愛くて素晴らしいという本質を知ってもらいたい。そして私達は行動を起こしそれを実現させた。もちろん私達だけの手腕だけでなく、世の流れもあっただろう。そして10年が経った今、世の中は概ねかつての自分達が思い描いていたように変わったような気がする。私達は全力を出し切った。

 今回のかがり火天国は完全に「部外者」の立場で見た。一応イラストは投稿したが、まあ生存報告だ。それでもかつてかがり美少女の座を競い戦った仲間たちの名前を見ることが出来た。みんな元気そうでなによりだ。そして今回イベントを支えるスタッフ達は地域の町おこし隊ということだ。留学時代は方向性の違いから対立したこともあったけど、10年も経ってしまった今はもうそんなことはどうでもいい。考えようによっては自分たちがめちゃくちゃやった後の後始末をしてくれていたということだろう。そしてゲストとして来町したアイドル声優二人組が現れる。第1回では無理矢理最前列を確保したトークショウを、今年は盆踊り会館前の最後尾で眺めた。そして投稿作品の優秀賞が決定し、主催者から記念品が贈呈される。もうこの老いぼれの出る幕はない。かつての自分たちがしたように、これからは若い人が新しい時代を作っていってもらいたい。時代は変わった。世間の風当たりに必死で抵抗し美少女イラストの本質を広めようとした若い自分たちは、もう居ない。

 時代は大きく変わった。しかし今の世の中には、まだまだ納得がいかないことが沢山ある。戦う場所は違うけど、引き続き世の中に対しては抗議していこうと思っている。ぶっちゃけイラストより4コマ漫画の方が得意だし。私は私なりのやり方でやっていこう。ほんの一時でも昔の自分に戻れたし、今夜は来てよかったと思う。そして東京に戻って、また新たな場所で戦っていきたい。祭たけなわの羽後町を去る。次に此処へ来るのは一体いつになるのだろうか。それでもまたあの橋の袂で、鳥海山に向かってただいまと言いたい。そんな真夏の夜の夢。
 
 nissi
 此の老いぼれにも、まだまだやらねばらなぬことが、あるのだ。

青森県のイエス・キリストの墓を訪ねる

 今から30年以上も昔の話になる。当時の子供向けオカルト雑誌に「青森県にイエス・キリストの墓がある」との記事があった。キリストはエルサレムのゴルゴダの丘で処刑されたはずだが、何故日本の、しかも青森県の山奥に?半円の盛り土の上に、人の背丈ほどの白い木製の十字架が立つ構図が子供心に不気味だった。

 ■青森県新郷村・キリストの墓
 http://www.vill.shingo.aomori.jp/sight/sight_main/kankou/sight-christ/

 あれから30年以上が経ち、何故今更「キリストの墓」を思い出したのかは解らない。子供の頃は遥か遠くの地であった青森も、大人になった今なら訪れることは難くない。文明の利器インターネットを使うとキリストの墓があるのは青森県の新郷村。アクセスは八戸駅から路線バスで五戸、更にバスを乗り継ぎ新郷村、そこから村営バスでキリストの墓の前まで行くことが出来るらしい。ちょうどこの週末私は北海道に用がある。渡道前に青森のキリストの墓を訪れ、八戸から深夜フェリーで北海道へ渡れば良い。こうして東京始発7時40分の「はやぶさ49号」に乗り、八戸駅へとやって来た。

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 東京八戸3時間なんじゃいな

 季節は6月下旬。梅雨の東京は毎日のように雨が降り続いているが、ここ北東北は晴れの天気では無いものの、しばらく雨の心配はなさそうだ。これから向かう北海道も週末にかけて雨の心配は無いらしい。まずは駅構内の南部バス営業所で「新郷・八戸乗り継ぎ乗車券」を購入した。新郷村へはこれより2本の路線バスを乗り継いで向かうが、八戸駅で前もってこの乗車券を購入すれば運賃が200円割引の合計800円になるという。今ではこういう情報も前もってネットで知ることが出来る。まったくもって便利な世の中だ。

 八戸駅11時30分発の五戸行きバスはやや遅れてやって来た。既に八戸の市街で乗客を乗せた後で、程良い乗車率で発車した。バスは東北新幹線をオーバークロスして八戸の郊外を走る。停留所毎に買い物袋を持った老人たちが敬老パスを見せてバスを降りていく。全国どこででも見られる、平日の昼の光景だ。彼らは八戸の郊外でほぼ全員が降りていき、バスが五戸町に入る頃には乗客は私を含め2名になってしまった。
 
 五戸の市街に入る。ここ南部地方には一戸から九戸までの地名が連続し、鉄道の駅があるのは一戸、二戸、三戸、八戸の4つで、地名としては四戸だけが欠けている。すると「金ケ沢」の行き先表示を出したバスが現れ私のバスとすれ違った。金ケ沢とはこれから向かう新郷村の地名で、もしかしてあのバスに乗らなきゃいけないんじゃ?バスは五戸の市街を突き切って終点の五戸駅に到着する。ただっ広い構内はバスの車庫として使われており、営業所もある。係員に尋ねるとやはりさっきのバスが本来乗るべき金ヶ沢行きのバスだったらしい。要するに今私が乗ってきたバスが定刻より少々遅れていて、金ヶ沢行のバスは八戸からのバスを待たずに発車してしまったということだ。係員は「中央のバス停で乗り換えていただければよかったのに」と話すがそんなこと余所者には解らない。次のバスは2時間後で、ここで2時間も無駄にしてしまうと本日中に八戸へ戻れない。万事休すだ。

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 街外れの五戸バスターミナルは鉄道の名残がした。

 ここ南部バス五戸駅はその名の通り昭和44年に廃止された南部鉄道五戸駅の跡地で、構内にも南部鉄道の記念碑が立っている。さしずめ今乗ってきたバスは南部鉄道の代替バスといったところであろう。だがそんな事を言っている場合ではない。私は駅前のタクシー営業所に飛び込み「新郷村まで幾らで行けますか?!」と言った。新郷村の中心地が南部バスの金ヶ沢バス停で、キリストの墓へはそこから村営バスに乗車する。村営バスが金ヶ沢を出る前にタクシーで着いてしまえばキリストの墓へ向かうことが出来るのだ。

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 ここまで来たんだ!タクシーに課金してやる。

 初老の運転手は3500円だと言う。なら決まりだ。私はタクシーに飛び乗り、一路新郷村を目指すことになった。

 せっかくだから運転手にキリストの墓について色々尋ねてみよう。やはりキリストの墓へ向かう客は時々乗せるらしく、この春先は月に6組程居たという。ネットで瞬時に正解に辿り着ける時代でも現地に行かねばその真相は解らない。ここへ来る前にネットで色々調べたところ、青森のキリストの墓に関するサイトを沢山見つけることが出来た。ネットの情報に次々と触れていると、これは本当にキリストの墓ではないかと思えてくるようになる。

 思い切って運転手に「あれは本当にイエス・キリストの墓なんですか?」と聞いてみた。運転手は「違うと思いますよ」という表情をしつつも、「そうかもしれませんね」とだけ返した。タクシーは一路曰く付きの村へと伸びる一本道を走る。タクシーは五戸町から新郷村へ入り、「キリストの里公園まで4.6km」の看板が見えた。

 暫く走ると前方に路線バスが見えた。あれが先程五戸町で私を置いて行ったバスだ。このままタクシーがバスを追い抜いてくれればいいが、ここは安全運転を優先してもらいたい。新郷村の中心地へ入り、バスが診療所の前に停車した隙にタクシーはバスを追い抜いた。そしてそのまま金ヶ沢のバス停の前でタクシーを降ろして貰う。料金は3590円。キリストの墓へ向かう村営バスはまだ来ていない。間に合った。

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 此処が新郷村の中心地、金ヶ沢。

 暫時経って白いワゴン車がやって来た。車体に「みずばしょう号」と書かれ、運転手の他に老婆が2名乗っている。先程の診療所からの帰り道であろう。村民の通院や買い物のほか、五戸行きのバスとも上手く接続し、村民の足として機能している。そのため土曜日は大幅に減便され、日曜日は全便が運休となる。なので公共交通機関でキリストの墓へ行けるのは平日だけなのだ。老婆は運転手と顔馴染みらしく、生粋の南部弁で世間話に高じている。家を改築したり車を買い替えたりして出費がかかるという話題なんだろうが、どうも東北の言葉は難解である。

 10分ほどしてバスはキリスト公園前のバス停に到着した。運賃は無料で、運転手にお礼を言ってバスを降りた。老婆も「いってらっしゃい」と私に声をかけた。青森のイエス・キリストの墓は公園として整備されていて、紫陽花が咲く階段を登りきると左右に二つの塚、そして白い木製の十字架が立っていた。向かって左が弟イスキリの墓、右がイエス・キリストの墓だという。

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 キリストの墓に来てしまった。

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 バス停の前に「キリストっぷ」という土産物屋があるのだが・・・

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 営業時間は日曜日の十字架ら三時まで。物理的に来れない。

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 公園を進み、この階段の上にキリストの墓がある!

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 これが十来(とらい)塚、イエス・キリストの墓と云われている。

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 キリストの墓説明文

 みちのく青森の山奥の村、新郷村。新緑が咲き、紫陽花が実り、梅雨時の薄曇りの空の下、全国何処にでもありそうな六月の風景だ。そして此処には私一人、そして眼の前にはイエス・キリストの墓と云われる小さな塚。子供の頃に読んだそれと全く同じものが今目の前にある。説明書きによるとイエス・キリストは21歳の時に日本に渡り、12年間の修業の後に故郷のエルサレムに戻り、キリスト教を伝道する。後に彼は捕えられ十字架の刑に処せられるのだが、磔にされたのは兄の身代わりとなった弟のイスキリで、キリストは密かにエルサレムを脱出して日本へ戻り、ここ新郷村で106歳の天寿を全うしたとある。

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 手前がキリストの墓、向こうが弟イスキリの耳塚、奥がキリストの館伝承館

 階段の先の「キリストの里伝承館」に入る。新郷村のキリスト伝説は昭和10年に発見された竹内文書が元で、文書は戦災で消失したがそのうちキリストの墓に関するものが複写し残されていた。館内の映像では新郷村のキリスト伝説とピラミッドの謎について学ぶことが出来る。聖書ではキリストが21歳から33歳までの間が空白になっているが、それを補完しているという竹内文書によると彼は21歳で能登半島の港に上陸し、越中の賢者の元で学びつつ日本各地で修行し、33歳で故郷へ帰りキリスト教を伝道する。弟を身代わりに処刑を逃れたキリストは再び日本の地を踏み、ここ戸来村を安住の地と定め、妻を娶り106歳の天寿を全うした。とあった。

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 キリストの館伝承館に入る。

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 新郷村の古民家、典型的な東北の集落だ。

 平日にも関わらず記念館には何名かの来客があった。こんな青森県の山奥まで物好きな。だがこの記念館はあくまで竹内文書の紹介がメーンで、肝心のキリストの墓の真偽については全く触れられていない。あくまで来館者の歴史認識に委ねるという姿勢だった。竹内文書そのものも当時から荒唐無稽の評価であり、現在も世間の認識は変わらない。あの塚がイエス・キリストの墓であるかどうかの真偽は、まあ言うまでもないだろう。

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 沢口家の家紋は星。ダビデの星を表しているというが。

 キリストの墓に向かうように日本式の墓がある。沢口家の墓とあり、村の名士の墓らしい。そしてその沢口家はイエス・キリストの末裔を名乗っている。キリストはここでミユ子という女性と結婚して三人の娘を授かり、その中の一人が沢口家に嫁いだという。キリストは此の地で十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改め、禿頭白髪、赤ら顔の鼻高の容姿であったという。そして資料館で見た沢口家前当主の写真も、言われてみればどこか日本人離れした表情である。
 
 帰りの「みずばしょう号」は私一人の貸切だった。運転手は私の身なりを見て一目で余所者と解ったらしく、どちらから来られました?と尋ねてきた。東京からと応えると、いやまあよく来たねと。「何もなかったでしょ?小さい塚が二つあるだけ。」この運転手も「あれはキリストの墓なんかじゃない」という表情をしつつも、「まあロマンだよね」と語った。実際村の人達もそう思っているのだろう。そしてそんな与太話を町おこしに利用してしまう強かさに感心してしまう。

 だが太古の昔、この村に忽然と異な人が現れた。村の人達は彼を受け入れ、自らのコミュニティの一員として迎え入れた。竹内文書の遥か昔から、村ではこの塚は要人の墓だと言い伝えられ、沢口家は代々それを守るように命じられていたという。
近代になって胡乱な文書によりイエス・キリストと結びついてしまったが、そのような事象ならかつてあってもおかしくない。そしてこの東北の地には、異な者を暖かく迎え入れる土壌が根付いている。ふと、昔の自分自身のことを思い出してしまった。 
プロフィール

hirakike

ハンコ絵師兼CJD見習い(非処女)の平木博士の心の闇の部分です。同人サークル「けろぷろ!」でクソマンガボーイやってます。代表作『ミレニアムの幻想少女』『ハタテピピック』(2016)。ときどき心が折れます。クソビッチです。※ご用と悩み相談はDMで(秘密厳守

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