8月の或る日。スマホでえきねっとを触っていたらムーンライトながら号の指定席券が生えてきたので、8月6日の月曜日の深夜、東京駅10番線の売店でお酒とおつまみを買い込んで、いつもの夜行列車に乗った。

 DSC_0110
 東京23時10分発、ムーンライトながら号大垣行き

 翌朝5時50分、ムーンライトながら号は定刻通りに終点の大垣駅に到着した。5時53分発の下り列車へと足早に乗り継ぎ、米原から6時50分発の北陸本線敦賀行きに乗った。湖北の水田地帯を走り、左手に余呉湖を望み琵琶湖の北端で湖西線と合流する。この辺りは関西の最果て感が漂う。続く近江塩津駅の先、全長5173mの沓掛トンネルで滋賀県と福井県の県境を越え、新疋田の先で左手に鳩原ループ線が別れる。このループ線は上り線で乗車するのは帰路になる。先程別れた上り線が頭上をクロスする地点、西村京太郎の『雷鳥九号殺人事件』のトリックで使われた有名な場所だ。

 DSC_0111
 米原で乗り継いだ列車は混んでいた

 7時36分、敦賀着。続いて7時41分発の福井行きに乗車した。敦賀を出ると間もなく全長13870m、北陸トンネルに突入する。現在でも在来線のトンネルとしては日本最長を誇る。トンネルを抜けると越前国で、福井市へ向かう通勤客が乗ってきた。暦の上では今日は立秋、平成最後の秋がやって来た。だが車窓に広がる越前平野は夏景色そのもので、たわわに実った稲穂が車窓を過ぎていく。今日も朝から暑くなりそうだ。夜行列車での寝不足から処々座席で船を漕ぎつつ、8時37分福井着。

 DSC_0113
 恐竜のモニュメントが出迎える福井駅
 
 DSC_0117
 越美北線に乗ります。

 高架化された福井駅では只今自動改札設置工事の真っ最中。そんな福井駅の外れの0番線から、1日9本の越美北線普通列車が発する。その名の通り越前と美濃を結ぶ鉄道として着工したが両線を結ぶ夢破れ、現在はこの越美北線と第3セクター化された越美南線に分断されている。9時08分発の九頭竜湖行きはキハ120系2両編成。後ろの1両は途中の越前大野止まりで、一乗谷で降りるつもりなので2両目に乗った。車両にはドアを手で開けて闖入する。例のきっぷで旅行中と思しき男性陣や地元民数名を乗せて発車した。

 「4年後には隣に北陸新幹線が走るんだな」などと想像しながら福井の市街を走り、高架を降りて北陸本線と別れ、最初の停車駅越前花堂に停車する。片面ホームの小駅だが北陸本線の線路にも同じ駅があり、連絡通路で結ばれている。ここが時刻表上での越美北線の起点駅だ。北陸自動車道を潜って福井市の郊外を抜け、水田と足羽川が見え始めると一乗谷に着く。このまま越美北線を終点まで乗り通したい欲求も出てきたが、席を立って1両目の先頭から列車を降りた。

 DSC_0118
 一乗谷にて。乗降客は私一人だった。

 一乗谷は福井市郊外、足羽川に注ぐ一乗谷川に沿って連なる谷底平野であるが、かつては戦国大名朝倉氏の城下町として栄え、最盛期には1万人の人口を有していた。当時京都の人口が10万、堺や博多が3万~3万5千というのだから、我が国屈指の大都市がここにはあった。だが一乗谷は1573年に織田信長の侵攻を受け一夜にして灰燼と化し、当主の義景は大野に逃れるも身内の裏切りにあって自害する。ここに戦国大名朝倉氏は滅亡し、一乗谷はその後400年近くも田畑に埋もれ忘れられた都と化していた。

 一乗谷駅から徒歩数分の所に福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館があり、まずはここで一乗谷の歴史を予習する。朝倉氏は元は但馬を発祥とした豪族で、応仁の乱の後で越前国の守護職として取り立てられたようだ。1471年に一乗谷城を建築しここを本拠地として代々栄えるが、11代義景の代になると信長と対立するようになり、遂に1573年信長勢の大軍により一乗谷城は陥落。ここに戦国大名としての朝倉氏も滅亡した。とボランティアの方から丁寧な説明を頂きつつ、館内の史料を見て回る。

 DSC_0119
 一乗谷の模型。最盛期はこの平野に1万人の民が暮らした。

 
博物館の前から一乗谷朝倉氏遺跡まではバスが出ているが、特に歩けない距離でもないので今回は徒歩で向かうことにした。10分も歩けばかつての一乗谷の入り口、下城戸跡が見えてきた。現在は重厚な石垣が残るだけだがここに巨大な門があったことくらいは想像がつく。険しい顔の門番が立って見張っていたのかもしれない。そしてここより先が忘れられた都、日本のボンベイこと朝倉氏一乗谷城下町だ。

 DSC_0134
 おじゃましま~す

 DSC_0133
 この先、一乗谷。
 
 
暦の上では秋と言ってもこの夏の暑さは異常で、今日も太陽は天空高く昇り日差しが暑い。夜行列車は冷房が効きすぎるので今回は長袖シャツを着ていて、もういっそ脱いでしまおうかと思うくらい暑い。暫くは一乗谷川に沿って普通の農村風景が広がる。特別史跡と言っても一乗谷落城後は都の上に田畑が開墾され人が住んでいるので、あくまで発掘のために田畑を手放した箇所だけが遺跡として認識されている。やがて一乗谷平面復原地区が見えてきた。ここはかつての町並みの礎石だけが見て取れる。ちょうど職員さんが草刈りをしておられたので話を聞いてみた。此処はかつての寺院と町屋群らしい。とは言え土の下から出てきたのは礎石だけで、ここでかつての城下町の喧騒を想像するのは難しい。

 DSC_0122
  かつて此処に都市があったと言うが。

 
続いて一乗谷復原街並を見る。此処は有料で、先程の資料館と共通の230円の拝観券を買ってある。田畑の下から出土した礎石の上に、戦国時代の町並みを復元した一角である。黄土色の土壁が続く情景はまるで3Dロールプレイングゲームの主人公になったようだ。当時はここを沢山の武士や町人が歩いていたのだろう。

  DSC_0128
 さながら、3DRPGのよう。 

 DSC_0129
 商店もあり、多数の民で賑わったのだろう。 

 武家屋敷や町人の家、商店。そしてここでは井戸や厠までもが忠実に復元されている。この厠、竪穴の土壌を分析したところ寄生虫の卵の化石が発見されたことから解明されたらしい。もちろんトイレは汲み取り式で、溜まった物は養分として農家に販売されていたのだろう。
 
 復原街並から一乗谷川の向こうが領主の館群である。このうち一番大きなものが朝倉氏代々の当主が住んだ朝倉館跡である。ここは門構が復元され、三方は土塁と濠で囲まれている。ここも土塁が残るのみだが先程の城下町とは規模が違う。明らかな屋敷である。

 DSC_0124
 領主の館。

 DSC_0125
 かつてここに立派な屋敷が建っていたというが。

 朝倉氏最後の当主義景は戦国大名と言うよりは文化人寄りで、戦はあまり上手くなかったようだ。キャラ的には今川氏最後の当主氏真に近い。氏真は家康に攻められた掛川城で主君以下全員の命を保証してもらって降伏したが、義景は残念ながら身内の裏切りにもあって自害してしまう。戦う相手が悪かったとはいえ、越前の覇者朝倉氏の悲惨な最期だったと思う。だが当の信長の権威もその後の本能寺であっけなく滅んでしまう。元亀天正の頃の話である。

 一乗谷落城から400年以上が経過し、今では静かな福井の山間となった一乗谷だが、朝倉氏の屋敷だった跡地に立派な庭園だけが残っている。屋敷が焼かれても石が焼けることはないし、誰かが意図的に壊さない限り400年そこらでは自然に還るものでもない。この諏訪館跡庭園は義景の妻の館にあった庭園で、一乗谷で最も規模が大きい庭園である。

 DSC_0131
 一乗谷にて。

 平成最後の夏。朝からずっと炎天下を歩き回っているのでさすがに疲れてきた。日陰のベンチに一人座って、この荘厳な庭園と対峙する。今は苔むした庭園も、越前の覇者朝倉氏の栄華を確かに今に伝えている。かつてここに朝倉氏の立派な屋敷が建ち、領主や客人がこの位置から立派な庭園を眺めていたのだろう。そして当時を伝えるものはこの棄てられた庭園だけ。
 
 一乗谷駅に戻り、13時07分発の九頭竜湖行きに乗車した。2両編成の車内は混んでいた。それもそのはず。実は私が今朝一乗谷駅に到着した9時26分から、3時間半後のこの時間まで列車が一本も無いのだ。福井駅と越前大野駅の間は並走する道路を京福バスが1時間間隔で結ぶ一方、鉄道の方は一日9往復とやる気がない。なお越美北線の開通は鉄道としては比較的最近のことで、越前大野までが昭和35年12月、終点の九頭竜湖までが昭和47年11月である。

 足羽川に掛かる真新しい鉄橋を渡る。平成16年の福井豪雨ではこの川に掛かる5本の鉄橋が流され、全線復旧まで3年を要した。美山の先で足羽川が別れ山間に入る。視界が急に開けると大野盆地で、遠くに山城が見える。街の入口である北大野で降りる乗客も多い。13時45分、越前大野着。ここで列車を降りる。

 DSC_0135
 越前大野駅にやって来ました。

 越前大野駅では観光案内所の職員さんから
「越前おおの食べ歩き見て歩きマップ」を手渡された。越美北線で訪れた観光客に配布され、市内の循環バスと観光施設の入場料が無料、そして市内の飲食店で利用できるクーポンが付いて、1000円相当のものらしい。それを無料で手渡してくれるとはたいそうなおもてなしだ。

 越前大野は天正3(1537)年に織田信長の配下だった金森長近がこの地に城を築き、以後「北陸の小京都」と呼ばれる碁盤目状の街が形成された。市内のあちこちに湧き水があり、水の都とも呼ばれている。駅前から循環バスに乗って街の中心部へ向かう。まずはお城に登りたい。標高249mの亀山の上に天守閣が建つ。天守は昭和43年に再建されたものだが内部には歴代藩主の物が多数展示されていた。

 城下町を訪れた際は必ず天守閣に登るようにしている。お城から街を見渡す。まるで殿様になったような気分だ。

 DSC_0137
 天空の城、越前大野城

 DSC_0138
 大野盆地を一望。

 
越前大野は戦災や大火を逃れた貴重な城下町で、武家屋敷や寺内町がそのまま残っている。お城を含め越前大野駅で頂いたマップを掲示すればどれも無料で拝観できる。そして市内のお菓子屋さんや酒屋ではお土産を頂くことも出来る。なんとも素晴らしいおもてなしだ。こうして北陸の小京都をぷらぷら歩いていると古風な銭湯を発見。今夜も大垣駅から上りのムーンライトながら号で帰京するので、朝から一乗谷、大野と歩きっぱなしだったので此処で汗を流すのも良いだろう。

 DSC_0146
 銭湯発見!迷わず入ります。

 
男湯は私の貸切状態で、番台のお父さんが色々と話してくれた。ここ亀山湯は明治35年創業の由緒ある銭湯で、わざわざ遠くから見学に訪れる人も多いそうだ。現在の建物は昭和初期のものだが。それでもこう、これこそ銭湯という感じがある。

 DSC_0143
 これぞ銭湯!ご主人が煙草を燻らせながら店番中。

 DSC_0139
 男湯は私一人の貸し切りだった。

 DSC_0149
 では、これより東京へ帰ります。

 
銭湯でさっぱりした後越前大野駅へ。17時09分発の福井行きで撤収する。帰りの列車は1両だがガラガラだった。大野盆地を暫し走った後山間に入る。そして再び足羽川と邂逅し、一乗谷から先は福井市の郊外を走る。この先の予定は福井から再び北陸本線で米原に出て、大垣からムーンライトながら号で帰京するだけだ。0泊3日の強行軍だが、ムーンライトながら号で往復すると思いの外色々な土地を巡ることができる。今回もなかなか有意義な旅であった。そしてこの後は列車を乗り継ぎ東京へ帰るのみ。