♪ちゃらちゃらちゃららら らら↑らららららら らーん

 サンライズエクスプレスのノビノビ座席に朝のチャイムが鳴り響く。午前6時08分、列車は定刻通りに和気駅を通過したとのこと。師走の夜明けは遅く、頭上には半分の月が高く昇り、明けの明星が輝く。

 東の空が徐々に灰色に染まってきた。6時27分、岡山着。ここで前の7両高松行き「サンライズ瀬戸」を切り離して先行させ、後ろの7両は「サンライズ出雲」となって出雲市へ向かう。短い停車時刻でホームに降りて、自販機で温かいコーヒーを買う。朝の駅ホームは切り離しを一目見ようとギャラリーで超満員。そしてここ岡山で降りる乗客も多い。このまま始発の新幹線に乗り換えれば広島や博多にも朝の丁度良い時間に着くことが出来る。我が国最後の定期夜行列車サンライズエクスプレスは、こうして今日も深夜の東海道ベルトを往来していた。

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 朝の岡山駅。サンライズ瀬戸号が先に発車していった。

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 引き続き「サンライズ出雲号」として、伯備線を通って出雲市まで行く。

 
サンライズ出雲は倉敷から伯備線に入り、高梁川に沿って走る。丁度通り掛かった車掌さんが「7月の豪雨はそこの道路まで水が来ていた」と話す。よく見ると川縁のあちこちに修復工事の跡が見て取れる。備中高梁、新見と停車し、山陽と山陰の分水嶺を短いトンネルで通過した。標高446m、伯備線で最も高い上石見駅で運転停車し「やくも6号」と交換する。

 9時30分、松江着。ここでサンライズ出雲を降りる。とりあえずバスで八重垣神社へ行こうとしたら、本日は松江城マラソンの影響で市内バスが運休している。予定変更。歩いてお城の方向へと足を進めた。宍道湖を見ながら松江大橋を渡り、市の中心部、官庁街を抜けて松江城内に入る。現存天守12城の一つ松江城を見て、お城の北側、かつて武家屋敷が建ち並んだ辺りを散策する。

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 サンライズ出雲を松江で降りた。

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 松江城、またの名を千鳥城と呼ばれる。

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 武家屋敷が続く通り。

 松江はラフカディオ・ハーンこと小泉八雲ゆかりの地だ。ギリシャで生まれアイルランドに育ち、19歳でアメリカに渡って職を転々としながら文筆で生計を立て、39歳で日本の地を踏み島根県尋常中学校の英語教師となる。彼はここで旧松江藩の武士の娘であった小泉セツと出会い、後に結婚と同時に日本に帰化し小泉八雲と名乗り、三男一女に恵まれる。

 八雲はここ神々の国の首都で何を思っていたのだろう。近年リニューアルオープンした小泉八雲記念館に入り、八雲の生い立ちをパネルで見た。ギリシャで生まれ、アイルランドで過ごした少年時代は神学校に通った。そしてアメリカに渡った後も様々な風土を経験し、文化の多様性を学んでいた八雲が最後に行き着いた場所は神道だった。出雲は神話の里であり、八雲も来日前に英訳された『古事記』を読んでいる。また旧家の娘であったセツが話す小話も、後の八雲の創作に関する大きなヒントとなった。結局八雲はわずか一年で松江を離れたが、ここでの一年が後の八雲の生涯に大きな影響を与えたと思う。

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 松江にて

 世界中の文化と触れ合う中で目覚めた「オープン・マインド」(開かれた精神)。八雲ほどではないが、私も全国様々な土地を旅しつつ今日ここ松江に辿り着いた。初冬とは名ばかりの小春日和の松江を漫ろ歩きつつ、少しだが八雲と同じ時間を過ごせたように思う。
 
 松江駅へ戻り、特急「やくも9号」で宍道へ出る。ここから中国山地を越えて広島県側の備後落合へ至る木次線というローカル線が伸びている。かつては陰陽連絡の一部を担ったが現在はその地位を高速バスに明け渡し、峠を越える列車は今では一日僅か3往復しか存在しない。今からその一本に乗って終点の備後落合まで往復してこようと思う。

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 木次線の単行ディーゼルカー

 宍道13時58分発の備後落合行きはキハ120系単行。JR西日本管内の非電化ローカル線で活躍する車種で、ロングシートの車内には計8名の乗客が乗っている。見たところ全員地元の用務客で余所者は私一人のようだ。木次線の営業係数(100円の利益を得るために係る経費)は828であり、JR西日本管内では最悪である。

 左にカーブして山陰本線と別れ、間もなく25‰の上り勾配にかかる。ディーゼルカーの鼓動が高まってくる。外は師走だというのにまだまだ晩秋の景色。野焼きの煙が随所で上がり、ディーゼルカーも警笛を鳴らして徐行する。沿線最大の街である木次で乗客が入れ替わり総勢5名となった。ここから中国山地の鬱蒼とした森の中へと入ってゆき、車窓も晩秋から初冬へ変化する。かつては広島と松江を結ぶ急行「ちどり」が陰陽連絡のメーンルートとした路線だが、今は二条のレールがあてもなく山の中へと伸びているだけだ。その中を単行のディーゼルカーが往く。

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 晩秋の風景

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 出雲三成にて。反対列車と交換する。

 もちろんJR西日本もこの赤字ローカル線に手をこまねいている訳ではない。木次線の沿線は神話のふるさと。駅名標にも「ヤマタノオロチ」や「スサノオ」のイラストが描かれ、沿線の神話が紹介されている。この辺りは古代イズモの要所であったのであろう。本日は運転されていないが週末を中心に「奥出雲おろち号」という観光列車も運転されている。だが私はこうしてローカル列車に揺られている方が性に合う。松江駅で買ったかに寿司と地ビールを開けて、ちょっと遅めのお昼ご飯とした。初冬の山中を単行のディーゼルカーが淡々と往く。

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 出雲三成の駅名標はオオクニヌシだった。

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 山の中の線路

 亀嵩。松本清張の『砂の器』の聖地で、駅舎には蕎麦屋が併設されている。週末だけあって車で来た観光客たちでそこそこ混んでいた。事前に予約すれば列車まで「出前」もしてくれるという。その次の出雲横田でついに列車は私一人の貸切となった。反対列車と交換のため16分間停車する。この辺りは神話のクシナダヒメ縁の地で、駅舎にも立派な注連縄が掛けられていた。交換した宍道行きの列車には旅行者と見られる乗客の姿があった。

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 注連縄が見事な出雲横田駅舎

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 反対列車と交換。旅行者がそこそこ乗っていた。

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 遂に列車貸切。
 
 私一人の貸切となった車両は終点の備後落合を目指して中国山地の山奥へと入っていく。急勾配や急カーブが随所に現れ、列車も「必殺徐行」を行う。そしてこの先には木次線最大の難所、出雲坂根三段式スイッチバックが待ち受けている。列車はまず行き止まり式の出雲坂根駅構内に進入した後、バックして30‰の急勾配を上がり、再び進行方向を変えて山間の峠へアタックする。

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 出雲坂根駅には湧き水「延命水」が湧いている。

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 先頭車両から。左側が今さっき上がってきた線路、右がこれから登る線路。

 
木次線の全通は昭和12年の暮。当時はここまでして山陽と山陰を鉄路で繋ぎたかったのだろう。松江と広島を結ぶ急行列車が行き来した時代もあったが、今は余所者の私一人だけを乗せた単行のディーゼルカーが最後の峠を目指してアタックをかける。やがて山間に奥出雲おろちループと呼ばれる立派な道路が姿を見せる。平成4年に開業し、今では木次線の白眉とも言うべき車窓風景になっている。木次線もエンジンを全開にして、ヘアピンカーブを描きつつ難所の峠を越えていく。三井野原を過ぎるとようやく県境の峠が終わり、後は軽やかに下り坂を転げ落ちるだけ。17時01分、終点の備後落合駅に到着した。

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 二重ループの奥出雲おろちループ

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 山間のジャンクションで日が暮れた。

 木次線と芸備線が落ち合う処だから、備後落合。かつては鉄道の要所として栄えたが、今では駅前に数軒の民家があるだけのローカル駅。ここで私は元機関士の永橋則夫さんの出迎えを受けた。最盛期にはこの駅で100名以上の国鉄職員が働き、永橋さんもその一人だったらしい。現在はここで週末を中心にボランティアガイドをされている。

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 備後落合駅に到着。

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 無人駅の待合室には史料が多数展示されている。


 山間のジャンクションで日が暮れる。待合室には最盛期の備後落合駅を記録した写真が多数飾られ、永橋さんが一つ一つ丁寧に解説してくださる。当時の主な客層は若いスキーヤーだったようだ。現在の一日平均乗車人数は僅か13名。17時41分発、木次線宍道方面行き最終列車で引き返す。もちろん乗客は私一人だ。

 外は真っ暗闇。行きに通った路線を、駅を一つずつ丹念に停車していく。もちろん乗って来る人も降りる人も居ない。木次でようやく女の子が一人乗ってきたが、3つ目の幡屋で降りてしまった。再び、木次線ヒトリノ夜。終点まで3時間の孤独。20時39分、宍道着。今宵は松江に宿泊する。

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 木次線最終列車が宍道駅に到着。不思議な3時間の旅だった。